1992(平成4)年2月に、システム技術部(第三研究室配置)となって広島に帰任した後、一時的に某製鉄所向け荷役システムの機能改善などの業務を担当していた。
検出や制御を含むシステムは重要であるが、荷役システム本体の機構や強度などの設計がうまく機能できない場合、ソフトでカバーするには限界がある。
京葉地区の製鉄所に出向いたり、制御システムを担当するメーカーを訪ねたり、赤外線センサーを開発する航空機・誘導システムの事業所に行ったりして対策に、文字通り東奔西走していた。
帰宅しても顔色の良くないのを気にしてくれた家内が因島にドライブに連れて行ったり、北九州の宿舎まで来てくれたりして励ましてくれた。
同年10月に、システム技術部はエレクトロニクス事業部に改編されていた。
本当に、システム技術関連個別案件で採算ベースで事業展開せよと言うのであろう。
その頃、本社技術管理部でも、広島研究所でも大学教員など、私の身の振り方について親身に相談に乗ったり、提案してくれたりした。
1994(平成6)年に設立される広島市立大学の教員を募集していた時期でもあり、技術管理部長の推薦状も発行してくれた。
広島研究所の柳所長がY女子大学の事務局と相談してくれたので、取り敢えず一年間、非常勤講師を勤めることになった。
当時、同大学の文学部に児童教育学科があり、そこには情報教育コースがあった。
事務局長は、将来的には情報関連の学部を作る予定であるとも言っていた。
大学の教員になるためには学位があったほうが望ましいと言うことで、若い頃勤めて居た造船設計部から九州大学工学部に行ったF教授に相談し、学位論文を書き始めた。
週に2回程度、Y大学で授業を行い、その他の時間は論文執筆に充てることが出来た。
有難いことであった。
学生は真面目で、礼儀もわきまえていた。
通勤は自宅から自転車で通える距離であったが、大学は山手にあり、正門前に坂があったので自転車で通うことはなかった。