1990(平成2)年6月に名古屋の電子・制御技術研修所に転勤した。
電子・制御技術研修所は本社技術管理部に属していたが、システム技術部と関連が強く、名古屋市中村区岩塚の同じ構内にはシステム技術部のメカトロニクス開発センターがあった。
総合メーカーであったが、技術者は造船系や機械系が多く、電気/電子系は日立や東芝など電機メーカーほど多くなかった。
同じグループの三菱電機とはエアコンなどの製品で競合もしていた。
そこで、社内の技術者を再教育して電子/制御に強い技術者を育成しようとしていたのである。
初めて単身赴任することになった。
宿舎は岩塚町小池の第十菱風菱であった。
研修所から歩いて数百メートルであり、パーティなどを開催できるホールもあった(岩塚荘)。
単身赴任の所長や次長のための施設で、朝夕の賄いには給仕サービスもあり、職場から帰ると煮物や椀を温めてくれた。
クリーニングも業者が集配してくれたし、部屋に電話もあった。
研修所の講座はハードウェア、ソフトウェア、システム開発など短いものは3、4日程度のものもあったが教育の中心は3ヶ月間掛けて修了する中級電子技術コースであった。
電子工学の基礎、ディジタル回路、アナログ回路、シーケンス制御、自動制御、センサ、モータ、実装と信頼性、マイコンプログラミング、16ビットマイコン、VAX11、ソフトウェア設計、高級言語とOS、C言語、マイコンインターフェース、制御システム開発手順、デバッグツール、応用システム開発と多岐にわたるので予備講座も用意されていた。
専任講師は特別専門職2、3級のベテランである。
受講生の楽しみは大須のパーツ屋街に買い物に行くことだったかもしれない。
しかし、妻子のある年代でついて行けずに悩む者もいた。
寮は研修所に近いので、真夜中寝ているとノックをするものがいる。
作業服姿の研修生である。
「もう、ダメです。ついて行けません。」という。
こんなとき励ましたらいけないと教育課などから言われていた。
「まあ、座れ。」、「まあ、飲め。」、「今日は遅いから帰って休め。」
という対応をしたこともある。
この「中級」の他にプラント制御専門(10コース)、システム制御共通(9コース)、メカトロ制御(6コース)、技術計算(4コース)、製造(2コース)、それに高砂で技能系の中級、上級の講座があった。
1984年4月に岩塚地区で開講したが、10年後の1994(平成6)年に戦前、零式戦闘機など航空機を作っていた大幸工場跡地の一角に技術研修所が設立された。
更地になった工場跡地にはドーム球場が建設されたことはご承知の通りである。
私は1992(平成4)年にシステム技術部主査として広島に帰任したあと非常勤講師として何度か出張したことがある。
私が単身赴任していた期間は20ヶ月ではあったが、赴任する1年前に娘は高松の香川大学に入学し、高松駅近くに1人住まいを始めていた。
従って、何時も賑やかだった我が家は急に寂しくなった。
家内は以前から栄養士の免状があり、料理教室で講師をしていたこともあったが、数年前に一念発起して調理師専修学校に入学したが、見込まれたのか夜間部で受講しながら昼間部で授業するようになり、その頃はクラス担任をしていた。
娘が高松に行き、私が名古屋に行ったので、広島の我が家は父と家内だけになった。
1977(昭和52)年4月19日に母が亡くなったので、基町の市営アパートから安佐南区川内(当時:佐東町川内)に転居し、父と妹と一緒に住んでいたのであるが、妹は11月8日に升光家に嫁いでいた。
升光洋司氏は立派な人物である。
広島と名古屋の間は新幹線に乗れば2時間か2時間半で着くので、時々様子を見に来てくれた。
お陰で熱田神宮や東山公園など名古屋市内だけでなく、絞り染めの有松、岐阜、明治村、伊勢志摩などに出掛けた。
1992(平成4)年2月に広島に帰任してからは、しばしば瀬戸大橋を渡って高松に行った。
1988(昭和63)年9月に宮島対岸の安芸グランドホテルで、第22回淡水会で幹事を務めた父は、翌年は福岡、1990(平成2)年には淡水、1991年には唐津1992年には奈良と毎年、淡水会に出ることを楽しみにしていた。
私は広島で開催された第22回と、翌年福岡で開催された第23回には同席した。