1976(昭和51)年に、広島研究所で浚渫船の機種担当とりまとめを命じられ、研究統轄となった。
それまでの異常な造船ブームの終焉を迎え、1976年に最初の運輸大臣勧告により、造船大手7社の翌年度を操業度67%、翌々年度63%が打ち出された。
1979年の操業度目標はさらに55%に引き下げられた。
1978(昭和53)年11月には大手造船7社の設備を翌年度末までに40%削減、操業度目標はさらに縮減された。
そして遂に1980(昭和55)年3月末をもって広島は新造船部門から撤退を余儀なくされていた。
しかし、新造船から撤退と言っても、海洋構造物や浚渫船を主体とする作業船は建造することになっていた。
浚渫船は従来の機種で達成出来なかった岩盤浚渫や、海洋環境保全のための大量ヘドロ浚渫など広範囲な開発プロジェクトが目論まれていた。
カッター・サクション・ドレッジャ(ポンプ浚渫船)の浚渫性能はオペレータの技量に依存するところが多く、運転効率は運転者により大きく変動するという課題があった。
ペルシャ湾岸の産油国などが生き残りのために港湾整備を行うため浚渫船の引き合いも多かったが、日本の大手浚渫会社のベテランが現地に行き、性能評価のための運転を行って引き渡す契約であったが、現地のオペレータではそれを使いこなすことが出来ず、運転の教育指導まで行わなければならないこともあった。
新造浚渫船の試運転などで得た運転ノウハウや、カッターや浚渫ポンプの開発や改良を行ってきた経験を分析し、浚渫運転支援システムを開発する試験研究を起案し、予算化することが出来た。
見出しの写真はエジプトのスエズ運河庁向けに建造し、竹原沖で試運転中の大型ポンプ船である。
スエズ運河庁には、大型ホッパー浚渫船1隻、大型ポンプ浚渫船、クレーン船など数隻を納入した。