1977(昭和52)年8月1日から、一年間だけ管理職を経験したことがある。
広島研究所の第二実験課海洋・構造係長である。
現場(土地、建物、実験装置、計測機器、機材を含む)の係長と、研究室でレポートを書いている主任の職責手当が同額なのが不思議であった。
管理には予算管理や設備管理もあるが、何より大事なのは安全管理である。
しかし、それよりも煩わしかったのは実験場の整理、整頓であった。
所長室で窮屈な時間を持て余した担当次長がいつも見に来ていた。
多い日は、一日に3回も構内巡行バスでやってくる。
そして、実験場に一時的に荷卸しした資材が邪魔だとか、ゴミ箱にゴミが残っているだとか、A4サイズの用紙に2枚も書き残して帰るのである。
安全管理の次に重要なのは設備や資材の管理である。
実験課員、研究室員のほか関連会社、外注先、納品業者などが常時、車で出入りしている。
ちゃんと管理していても、不心得者が居ると社品持ち出しなど簡単にできる。
しかし、何と言っても安全管理には気が抜けなかった。
全所で連続無災害を数千日も続けているとき、指先を擦りむいても完全無災害記録は途切れる。
安全はすべての基本である。
実験課員、研究室員、協力会社など数十人が作業していたが、安全帽や高所作業の安全帯、脚絆などを外したり、気を緩めるわけには行かなかった。
実験用の模型を発注したり、加工外注することも多く、伝票処理も多かった。
労務管理にも多くの時間を費やした。
年次毎の昇給や昇格、それに一時金の考課なども、江波地区に勤務している者が不利になってはいけないので、十数名の係員の勤務実態を把握するだけでなく観音地区の者の様子も知る必要があった。
当時の課長が立派な人物で、係長の経験不足をカバーしてくれたのは有難かった。
時間中には係員と打ち合わせや指導も多く、人が少なくなってから計測記録やレポートをチェックし、自分の研究レポートをまとめたりしていた。
通常、人事は最低2年間は必要とされる。
一年目は、前任者の方式を踏襲し、二年目に自分なりのやり方を見出し、改善を加えて行く。
しかし、私は一年間で研究室の特別専門職(主任)に戻された。
長崎から赴任した新所長が、浚渫船の機種研究統括専任にしてくれたのである。
その頃、6ヶ月毎の浚渫船関連の研究費を一億円あまり確保していたからである。
岩盤浚渫や、公害対策の大量ヘドロ浚渫などに化学研究室や加工技術研究室などの研究者と事業本部に打ち合わせに行ったりしていた。
これは私が造船設計部出身だったので船舶事業本部が研究工事の依頼元になってくれたからであった。
このときは同じ構内なので転勤や引っ越しの必要はなかったが、十年以上後になって名古屋に転勤したことがある。
その時も異例の20ヶ月で広島に復帰している。