我々家族は1947(昭和22)年初、はじめて広島に来た。
しかし、それまでに広島は我が家と無関係であったかと言うとそうではない。
父のすぐ上の姉(私にとって伯母にあたる)が嫁いだ永富納氏が戦前から広島鉄道管理局に勤めており、広島市白島町に住んでいた。
白島というのは広島城を中心として市の中央部にあたる基町の北隣で、広島駅から横川、己斐(現:西広島)に向かう鉄道の高架線が通っていた。
路面電車 白島線の終点から北に約2百メートルほど行くと鉄道のガードがあり、そこを過ぎて少し歩くと東側に真言宗の寺がある。
その近くに住んでいたらしい。
白島も広く、東白島町、白島九軒町、白島中町、白島北町、西白島町などという地名があり、城下町であった頃には武家屋敷がならんでいたと言われている。
そこで被爆し、幼児を亡くして一家は実家のある唐津市に移転した。
しかし、伯父の納氏は定年まで単身で国鉄に勤めていた。
父や本家の伯父が健在だった頃、浜崎の本家で宴会をやったとき、本家の伯父は「鹿家の駅長はまだか?」と冗談を言っていた。
鹿家とは筑肥線浜崎駅東隣の駅名で、福岡県最西端の利用客も少ない田舎駅である。
1947年に来た当時は市内全体が原子砂漠と呼ばれていた焼け野原で、西端の己斐駅(現:西広島)から比治山公園まで見通せた。
建っているのは原爆で焼け残った住友銀行、福屋百貨店、中国新聞社屋など数えるほどしかなかった。
後にコンクリートで再建された広島城も木造の本丸櫓の残骸が残っていた。
1949(昭和24)年に基町の市営住宅に入居するまで比治山本町、西蟹屋町、中島など転々としていたが、その頃は街全体が再構築される時期であった。
広島で小中高を卒業し、自宅から広島大学に通い、就職しても広島造船所に配属されて以来20ヶ月間、名古屋で単身赴任した以外はずっと広島暮らしである。
「淡水から広島までの一千浬」の続編として思い出すままに書いてみることにした。
写真は京橋川と並行する路面電車、比治山沿線の側道である。
(このつまらないブログを読んでくれている方から「つらいことは書くな、楽しかったことを書けばよい」と励まされたことで、項を改めて続けることにしたものである)