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淡水から広島までの一千浬(55)

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私が笠木山丸で乗船計測をしていた頃、母は点字図書館で点字の講習を受けていた。

その後しばらく点字図書館に通って点字の奉仕をしていた。

佳子は純子を連れて3ヶ月間、修養科に行っていた。
修養科と言うのは天理教本部の、所属大教会の詰所に住み込んで講習を受けたり、奉仕活動をしたりして修養を積む課程である。

私の乗船計測の方は2ヶ月であったので、帰国後の週末、国鉄、近鉄を乗り継いで逢いに行った。
純子はあまり人見知りする子ではなかった。
手を差し伸べると、抱かれようと上半身を寄せてきた。

黙っていたが、抱いて表に出ると「ホーリング」と言う。
見ると当時流行っていたボーリング場が近くにあり、屋上に大きなピンが立っていた。
1歳半の純子は、バスが通ると「バス」と言った。
ちょうど言葉を覚える時期であった。

当時、近鉄奈良線沿線に菖蒲池という小さな遊園地があったが、一緒にそこに行ったと思う。

その年の6月、父の会社で工事中に事故が発生し、工員さんが亡くなった。
その水道工事店に復職した数年後に水源地近くの工事現場で人命事故を経験していた父は6ヶ月後に辞任すると宣言した。

その水道工事店の大きな資材倉庫の2階3階部分を改造してそこに住んでいた頃のことであった。

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2012年02月27日 11:14に投稿されたエントリーのページです。

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