約30時間のローディングで10箇所のハッチから3艙の鉱石ホールドにコンベアから鉄鉱石が積み込まれていた。
第1ハッチから第3ハッチまでは一区画のホールドで第1(船首)船艙、第4ハッチから第7ハッチまでが第2(船央)船艙、第8ハッチから第10ハッチまでが第3(船尾)船艙と3区画に横隔壁で仕切られている。
積み込みに従って喫水が深くなり、入港時に見えていた崖の上の原住民集落は見えなくなっていた。
崖から降りるスロープの先には小さな漁船を繋留する小屋が建っていた。
鉱石を積み込むに従って喫水とトリムが変わるので、あまりトリムが付かないようにローダーはハッチを移動しながら積み込む。
この船首船尾の喫水を見て、幾ら積み込んだかを確認するのも一等航海士の仕事の一つである。
傍では漁民が漁具の手入れをしていたのであろう。
黙々と作業をしていた。
船尾側から見た本船である。
すでに満載状態に近く、船体は深く沈んでいる。
出港は夜になった。
1971(昭和46)年9月7日、18時40分離岸。
入港時と同じタグボート2隻が離岸を支援してくれたが纜を外した後、後甲板で乗組員が手を振ってくれた。
針路を南に全速前進が発令されたのは19時15分であった。
ケープタウンに向けて南下し、アグラス岬を廻ってインド洋に出ると時化の中を一直線にスマトラ海峡に向かった。
海峡に差し掛かる頃、主機に損傷を生じ、直径1メートル近いシリンダジャケットを引き抜き、洋上でスペアと交換した。
この時、機関部は大奮闘であった。
一時はシンガポールのドックに入渠するかも知れないと思ったが数十時間の漂流の後、福山港へ戻ることが出来た。
これは露天船橋に取り付けた、航空写真用のものをベースに開発されたステレオカメラである。
こちらは投棄式波高計である。
1航海に3基程度積み込んだが、これを使用するべきかどうかは、その都度船長にタイミングを教示して貰った。
アッパーデッキの一室を使用して計測室にした。
写真現像用の暗室も作った。
ダイナミックな計測データはアナログ式データレコーダのほかにディジタル式データレコーダも積み込んだ。
帰途、ベトナム沖で空母も見かけた。
当時、ベトナム戦争が膠着状態であった。
帰国したときも紀伊水道から明石海峡を抜けて福山の日本鋼管原料岸壁に入港したのであるが、瀬戸内海に入ったときの美しさは衝撃的ですらあった。
特に神戸の沖を通るときは手空きの乗組員は右舷側の神戸の街を眺めていたが皆、自然に微笑んでいた。やはり内地は良い。