笠木山丸は、日本鋼管(現:JFE)福山製鉄所に鉄鉱石を運搬するために建造された。
従って日本船舶技術研究会の実船計測は鋼管の原料岸壁が本拠地となった。
我々が乗船する前も、笠木山丸が乗船する度に広島研究所から計測機材や補給品を積み込んだキャラバンを仕立て、計測支援チームを派遣された。
定宿も契約されており、本船の入港前から出港を見届けるまで福山に滞在した。
私たちが乗船したのは1971(昭和46)年8月11日の朝であった。
備後灘を南下し、航行船舶の多い備讃瀬戸をゆっくり東航し、屋島と小豆島の間を通過したころ正午になった。
航行中の船舶は航跡を海図上に記入する。我々の計測日誌には正午位置(ヌーンポジション)を記入することになっていた。
笠木山丸は大きいので来島海峡は通れないので、播磨灘から明石海峡を抜け、大阪湾に出て紀淡海峡から紀伊水道に出た。
太平洋に出ると海の色が青インクのようであった。
この航海で太平洋とインド洋、それに大西洋の海水の色が違うのを体験した。
日本海軍の潜水艦は上空の哨戒機から身を隠すために上面は真っ黒に塗るが、ナチスのUボートの塗装はグレイである理由が判ったような気がした。
食事は毎食、キャプテンズテーブルであった。
船長と機関長、それに時々一等航海士が同席する。
船長が「どうですかね?」とか「計測は順調ですか?」とか「昨夜は少し揺れたけれどよく眠れましたか?」などと声を掛けてくれる。
飯は給仕長がよそおってくれ、茶碗の飯が少なくなると、後から銀色の盆がすっと出てくる。
最初のうちは恐縮していたが、2〜3日も経つと当たり前のような気になってしまった。
一等機関士、二等航海士以下は隣のテーブルで自分で給仕して食べていた。
それぞれに当直時間があるので非番の時に食事をし、睡眠を取るのである。
4時間の当直が終わると航海日誌記載事項などを引き継ぎ、8時間の非番になる。
午前0時から午前4時までの当直のあとは午後0時から午後4時である。
私たち計測員にも居室が与えられていた。
私は船橋に近いDデッキ右舷側の部屋で、相棒の杉岡計測員は計測器室に近いアッパーデッキ右舷フロントであった。
8月12日の正午位置は種子島の東方で、13日は沖縄本島と宮古島の昼間であった。
こうして第8次航は始まった。
この辺りに来ると、気温は高いが日本内地の蒸し暑さはなくなる。
デッキはスニーカーで歩くと足の裏が熱く、油を敷いて卵を落とすとサニーサイドアップが出来上がりそうだ。
それから、トビウオが沢山歓迎してくれた。
トビウオにとっては歓迎どころではなく、鯨より大きい怪魚から逃げるために空中に飛び上がるのであろう。
船首先端の一等航海士プラットホームで、どのくらい跳ぶのか測ってみた。
40秒、50秒でも結構長い時間だと思うが、1分以上跳ぶのが居て見飽きなかった。
往航で船は軽く、乾舷が高いが一等航海士の話では満載状態では船がデッキに飛び上がってくることもあるという話であった。
14日の正午位置にはバシー海峡に掛かり、台湾の蘭嶼島の近くであった。
15日はルソン島西側の南シナ海に入り、16日にはベトナムの東方海上、17日の正午位置はプロコンドル諸島沖まで南下していた。もう北緯7度台である。