広島研究所に移籍したのは、船舶工学科を卒業して造船会社の設計部に入社して7年半が経過した時点であった。
三菱重工業として合併する前年に入社したのであるが、三菱造船に新入社員として入社した192名のうち長崎研究所、広島研究所に配属予定の者はすべて大学院卒業の修士か博士であった。
構造強度研究室にも同期入社が2人居たが、2人とも九州大学の工学研究科卒の修士(航空工学と土木工学)であった。
そのまま移籍するという話であれば考えたことであろうが「2年間、勉強してこい。2年経ったら連れ戻してやる。」という上司の言葉で移籍したのである。
20世紀中期に、その原因究明により後の構造物設計の安全性に寄与した事故を3つ挙げるとすれば、米国ワシントン州の吊り橋「タコマ・ナローズ橋」、米国の戦時標準船「リバティ船」、それに英国で開発され最初に定期就航したジェット旅客機「デ・ハビランド・コメット」である。
「タコマ・ナローズ橋」は突風・波浪など構造物に掛かる自然外力の応答解明に寄与し、その後ニューヨークの「ベラザノ・ナローズ橋」(1964年部分開通)、瀬戸大橋(1988年開通)などにその成果が活かされている。
戦時標準船「リバティ船」は、従来鋲接であった船体構造継ぎ手に電気溶接を採用し、画期的な建造日数短縮に成功したが、電気溶接の熱影響部の低温脆性が劣化し、接岸中や航行中に船体が破断する事故が起こった。2〜2件であれば見過ごされたかもしれないが比較的新しい船の事故が多発したために、学会のみならず造船所や船体用鋼板を製造する製鉄所などが原因を探究し、仮に船体外板に亀裂が生じても、その進展を阻止するE級鋼が開発され、間もなく船体構造の鋲接は廃止された。
ジェット旅客機「コメット」は美しい姿態で華々しく登場したが、航行中に空中分解する事故が続き、徹底した原因調査に基づいて、実機に水圧で繰り返し荷重を掛ける大がかりな実験を行い、継ぎ手部の疲労強度が原因であることが究明された。
私が移転した頃、構造物の不連続部に荷重を掛けたり、振動を与えたり、50トンもの不規則荷重を与える疲労試験機などが導入され、静的応答実験に較べて膨大なデータ解析が必要になってきた。
船体構造の疲労寿命推定のために不規則荷重を何万回も掛ける実験を行う傍ら、有限要素法などのプログラムで応力集中係数を求めたりしたが、そのインプットデータの作成、チェック、それにアウトプットデータの図面上へのプロットなどを当時は手作業で行っていた。