私が造船設計部基本設計課(略称:船基設)に配属になった頃、第1船台では大同海運向けの3万4千総トンの鉱石運搬船「ろんぐびいち丸」(H168番船)が建造中で、第3船台では国土総合開発向けの8千馬力大型ポンプ浚渫船「第二国栄丸」が中断されていた工事を再開したところであった。
沖合のブイには完成した邦明丸(H158番船)が繋留されており、艤装岸壁ではソ連輸入公社向けの油槽船「リホスラブリ」(H161番船)が艤装中であった。
第2船台上には貨物船(H167番船)が起工されたものの、船主の資金繰りか何かの事情で建造中止状態であった。
このように私の入社直前には造船工事が無く、現場の工員さんたち(本工)の仕事がないので出勤しても工場の草抜きとか設備のペンキ塗りなどをしていた。
これは戦前から造船所の宿命のようなものであり、そのため造船所が直接雇用している工員(本工)の人数を局限し、造船工事を受注したときに臨時工を雇うか、下請けに工事を発注していた。
そのため、構内には一次下請、2次下請などの事務所が並んでいた。
造船所は十年に一度のブームで、それまでの累積赤字を取り返すという噂があったほどである。
実は、第1船台のH168番船は、本来取得すべき運輸省の認可を受けずにほそぼそと工事を行っていた。本工の仕事を確保するために海上から、新造船と識別されない限界で船底部分の工事を行っていたのである。
そのような状態であったが1963(昭和38)年頃からの造船ブームで、H161〜H166(ソ連向けオイルタンカー)、H169、H170(ソ連向け球形LPGタンカー)、H171〜H173(インド向け鉱油兼用船)、H174(日本郵船向けパルプ専用船)、H175(太平洋海運向け油槽船)、H176(中村汽船向け貨物船)、H177、H178(リベリア向けバルクキャリア)、H179(新和海運向け鉱石運搬船)、H180(日本郵船向け鉱石専用船)、H181(輸出タンカー)、H182(日本郵船向け鉱石専用船)、H183、H184(リベリア向けバルクキャリア)、H185(日本郵船向け鉱油兼用船)、H186、H187(リベリア向けバルクキャリア)、H188(ギリシャ向けバルクキャリア)などを連続受注し、設計部は多忙の時期を迎えた。
忙しいだけでなく、技術的にも実に面白い時期であった。
往時の外航船の代表と言えば、貨物船であった。
貨物船にも欧州航路、北米航路のような航路を定期運航するカーゴライナーと、トランパーと呼ばれる不定期船がある。
前者は絹などの貨物と、海外の任地に赴任する人など乗客も乗せて社旗とファンネルマークも誇らしげに走っていた花形であった。
後者は、荷物のあるところを渡り歩く、いわばドサまわりである。
それが、この頃から専用船化されつつあり、穀物などをばら積みするバルクキャリア、石炭を専用に運ぶ石炭運搬船、比重の大きい鉄鉱石を積む鉱石専用船、仕向け地によって原油を運んだり鉄鉱石を運んだり出来る鉱石兼油槽船など、新船種が続々と現れた時代になった。
船舶は飛行機と違って1隻々々が、いわば試作船であった。
同型船と言えども、共通化出来るのは基本設計のみで、船級協会や船主に承認申請図は各船ごとに行われるし、鋼板を発注したりマーキング、切断、溶接などの工程は新設計のときと変わらない。
船舶を受注する度に機構や構造強度を検討し、図面上で具体化して行った。
実に面白い時期に船体基本設計部門で仕事が出来たことはいまでも感謝している。
ベテランは製図、諸計算に専念し、私たちは研究所や学会の構造分科会などで実験を行ったりシミュレーションを実施したりすることもあった。
試験研究のテーマは、次から次へと出現した。
船種も船体構造方式も革新期にあったので、船級協会の「鋼船構造規定」改定のための委員会に出席し、改定案を提示したこともあった。
写真は、上から「H158番船:邦明丸」、「H160番船:第二国栄丸」、「H161番船:リホスラブリ」、「H167番船:ドン・アントニオ」、「H168番船:ろんぐびいち丸」である。