1964(昭和39)年2月に、広島研究所に第二計装研究課(金田彰夫課長)が新設され、計装係(課長兼務)と電子計算係(成富義係長)が設置された。
同年6月には長崎研究所から電子計算機IBM1620が移設された。
日本IBMから数年間レンタルされていたものであるが、長崎地区のセンターマシンとしてIBM7040の導入に伴い、残期間を広島で使おうとしたのである。
メモリ素子はコアメモリで、可変ワード長の2万桁から6万桁まで拡張可能であった。
10桁を1ワードと換算すれば20KWということになる。
ALUはなくテーブルを参照して演算を行い、加減算には100桁分、乗算には200桁分のメモリを使用したテーブルを用いていたという。
除算はオプションで、浮動小数点演算オプションとは同時に装備できなかった。
論理回路は真空管ではなくレジスタートランジスタロジックであった。
プログラミング言語はアセンブリ言語の他、FORTRANが使用できた。
FORTRANⅡもあったが、4万桁以上のメモリを必要とした。
IBMではGOTRANという単純なインタープリタ方式もあったらしいが、
GOTRANⅡと言うのは後に三菱重工の役員となる長崎研究所計装研究課の野口技師が開発したと聞いて、凄い人が居るものだと思った。
H175番船の固有振動数を計算するために長崎に出張していたときにお目に掛かったことがある。
補助記憶装置もなく、テレタイプ用紙テープに穿孔されたソースプログラムは、言語処理プログラムにより、一度紙テープに穿孔され、別のプログラムを読み込み、そのデータとして読み込ませると実行可能プログラムが生成された。
同じように穿孔したデータテープを読み込ませてやっと演算が始まった。
数元の連立方程式の解を得るまで数分を要するので、一寸した実用プログラムは順調に行っても数時間を要した。
従って電子計算機係の研究者は、そのあいだ碁を打っていたらしい。
広島造船所で囲碁大会があったときに優勝したりしていた。
当時、長崎から転勤してきたプログラマには、後に鈴峯女子短大の教授になった橋本邦夫氏、入社年次1年先輩の桜木英彦氏と宮崎公明氏が居た。
桜木氏には広島造船所、広島研究所在勤中、プログラミングの指導を受け、その後も浚渫船の自動化プロジェクトで一緒に仕事をするなどとてもお世話になった。
宮崎氏は、その後何度か転勤されたが名古屋の電子制御技術研修所に勤めていたとき、公私ともに大変お世話になった広島大学の先輩でもあった。
その年に、川島氏、堀木氏が新入社員として配属になった。
女子プログラマの先駆者であった小西さんは長崎研究所から転勤してきたのであったろうか。
そのころ、同社ではオープンプログラマ制が採られ、研究者だけでなく設計部門でも工作部門でも経理など事務部門でもコーディングをしたり、入力データを作って依頼していた。
しかしながらIBM1620は事業所のセンターマシンとしては非力であった。
ちょっとした計算は本社に設置されたIBM7044に依頼していた。
プログラムや入力データは所定のフォームに書き込んで、東京に送るのである。
それがカードにパンチされ、バッチ処理としてコンパイラーに掛けられ、アウトプットが手許に帰って来るのに1週間かかった。
千行あまりのプログラムを書いても、コンパイルエラーがなくなるまでに1ヶ月では済まなかった。
カンマとピリオドが違っただけで何十行もエラーメッセージがプリントアウトされて帰ってきた。
テスト用のデータを送ってデバッグをしているとテスト回数が40回近くなった。
従って、今日のようにいい加減なコーディングをしてコンパイルさせるわけに行かなかった。
眼光紙背に達するほどチェックしていた。
広島に移設されたIBM1620は、すぐ処理能力の限界に達した。
IBM1130が導入されたが、すぐにパンクしてしまった。
事業所のセンターマシンとしてCDC6400が導入された。
その頃までコンピュータと言えばメインフレームのことで、空調の完備した大きなスペースに設置され、白衣を着た技術者に扱われていた。
IBMのコンピュータは販売されることはなく、設置された役所や企業にその演算機能を提供し、長期のリース契約となっていた。
我々は、売ってしまうと解体されて機密が漏れるからかと思っていたが、そうではなかった。
24時間、完全看護で面倒をみなくてはならず、商品として売れるようなものではなかったのである。
IBM1620やIBM1130の頃は、計算器室に入り込んでデバッグやプロダクション計算を行っていたが、さすがにCDCのメインフレームが設置されると計算器室に頻繁に出入りすることがなくなった。
造船設計部基本設計課の船殻計画係に所属していたが、この基本設計課という職制は造船設計の機能を掌握しているところであった。
船主や船級協会への承認申請に必要な膨大な仕様書や基本設計図の権限を握っていた。
そのため、見積係、船体基本係、船殻計画係、船艤計画係、機関基本係など約40名の職員と製図工など工員さんもいた。
勿論、図面の出図は管理課の仕事であり、船主や官庁、船級協会などは営業部の仕事である。
船殻計画係は渡辺係長、橋国技師、鈴木技師、松前技師、沖本技師、岡上技手のほか伊藤さんが居た。
何れも一騎当千の猛者であった。
橋国技師が、いわゆる担当技師で、係員が数十日かけて仕上げた図面を構造強度面や法規あるいは船級協会規則に抵触していないか、艤装や機関部との調整も含めてチェックするのである。
英文のロイドやアメリカ船級協会ルールブックの年次改正も彼の頭には入っていた。
そんな中で一部の図面を書いていたが、朝出社すると「今日は3Hで良いでしょうか?」と、その日製図に用いる鉛筆の芯から伺いを立てねばならぬような状況であった。
造船技師は、機械屋や電気屋のようにメーカーの持ってくるものを検品するだけではなくすべて手と頭で処理しなければならず、一人前になるには2、3年掛かると言われていたが、船体設計では5年くらいでは一人前扱いされなかった。
そんな中から、製図を担当しながらコンピュータで処理できる計算をプログラミングするのが私の仕事であった。
基本設計段階でよく使われたプログラムに、船体縦強度プログラムや、初期設計段階で船殻重量を推定するプログラムであった。
この当時、入力データはすべて手入力であり、ラインプリンタの出力を手作業でグラフや図面にしていた。数秒の計算で済むのにそのデータ処理で何日も深夜残業していた。
プロッタやグラフィックディスプレイはデータショウなどに展示モデルはあったが実務で使えるようになるのは後年のことであった。