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淡水から広島までの一千浬(36)

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1964(昭和39)年11月11日に、広島造船所の第1船台で第20次計画造船の太平洋海運向け7万トン級タンカーの起工式があり、12月10日に船台上で建造が始まり、翌年5月31日に進水式を行う予定になっていた。広島造船所で建造される第175番船(進水時に「平和丸」と命名)である。

この油槽船の主機には広島造船所観音工場で製造された9UEC85/160が搭載されることになっていた。
9UEC85/160という、三菱造船の開発したクロスヘッド式舶用低速ディーゼルエンジンで、直径85センチメートル、ストローク160センチメートルのシリンダ9気筒という型番である。

船体長さ226メートル、船幅34メートル、深さ16.5メートルの同船の固有振動数を推定したところ、主機の常用回転数と共振するおそれがあった。
共振すればブリッジのチャートテーブルで航海日誌を書けなくなることも考えられる。
海上試運転で振動が発生したら、推進器の翼数を変更して取り替えねばならないことも予想された。

当時、長崎造船所に導入されたばかりの電子計算機IBM7040で船体の重量分布や数十箇所に分割した船体の剛性分布を入力して固有振動数を計算する必要があると設計部では判断した。
その計算のために1〜2週間、図面を携えて長崎研究所制御研究室に出張を命じられた。
当時のコンピュータは数値計算を行うために、剛性分布や重量分布を数値入力することが必要で、出力もラインプリンターで出力される厚さ10センチ単位のアウトプットから手でプロットしなくてはならなかった。

この時は、広島造船所の基本設計課に、広島研究所に出来たばかりの構造強度研究課、長崎造船所の船体設計課、長崎研究所の計装研究課が支援にあたった。

私は昼間、入力データをIBMカードにパンチするためにデータシートに記入し、駅前の旅館に帰っては図面から寸法を読み取っていた。

この辺りが、その後コンピュータに関わるようになったきっかけのような気がする。

広島研究所から出張に来た森主任が、一度街に連れて行き、ビフテキで有名であった「銀嶺」というレストランに連れて行ってくれたことを憶えている。
後に、広島研究所に配置換えになって森主任に指導して貰うことになる。

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この写真は、当時の長崎研究所の一角で、中央に見える5階建ての建築物の中に計装研究課があった。
その左の2階建ても長崎研究所が会議室などに使っていた。
5階建てのうしろにある2階建ては平戸小屋寮という独身寮であった。
なお、手前に見える工場は三菱電機の建屋である。

三菱電機は、もともと三菱造船の電気部門であったので、長崎も神戸も造船所に隣接している。

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2012年02月08日 10:01に投稿されたエントリーのページです。

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