三菱に入社し観音寮に入寮して、工場実習が始まった。
広島造船所は、埋め立てと並行して建設が進められ、同時に第一番船の建造に着手していた。
徳川幕府が長崎に鎔鉄所を開設し明治政府に移管された官営製鉄所を、三菱商会の岩崎彌太郎が払い下げを受けて三菱会社長崎造船所が設立された。
日露戦争中の1905(明治38)年に社船の入渠、修理のために神戸造船所を開設し、1914(大正3)には彦島造船所(後に日立造船彦島造船所を併合し下関造船所となる)を創業、1935(昭和10)年には日本郵船の横浜船渠を合併し、1943(昭和18)年には若松造船所を建設するなど事業を拡大していたが、大東亜戦争を戦い抜くために東洋一の造船所を建設することが決議された。
第1候補であった周防灘に面した福岡県の苅田は、水深が浅く、浚渫してもすぐ埋まり、交通も不便なため土地は無償提供されるというも断念され、静岡県の清水、富山県の伏木、兵庫県の広畑、愛媛県の三津浜なども候補に挙がったが、新造船所建設地は広島に決まった。
日清、日露の戦争で軍都となった広島(宇品)港からは幾百万の将兵が戦地に赴いたが、宇品地区の西、吉島、江波、観、庚午、草津にわたる130万坪の地先を埋め立て、大工業地帯を造成し、1万トン級の船舶の接岸出来る港湾設備が計画された。
1940(昭和15)年11月のことである。
埋め立て工事が始まると、当時の広島県知事相川勝六をはじめとする政財界の要人が東京、大阪で誘致活動を展開した。
当時、三菱重工業と社名を変更していたが1942(昭和17)年3月30日に観音地先埋立地(広島工業港第5区)を、次いで同年7月10日に江波地先埋立地(同第4区)の売買契約が交わされた。
双方で60万坪にのぼった。
1943(昭和18)年4月に工場建設に着手し、翌年三菱重工の2つの独立した事業所になった。
観音地区に建設中の新工場には「N工場」と仮称がつけられ、神戸造船所に設けられた陸上機械工場拡充計画委員会の主導により、神戸造船所から技術者の第一陣が派遣された。江波地区の工場の仮称は「S工場」とされ、長崎造船所がその支援に当たることになった。
「S工場」には、船台を8基並べ、それぞれ複数の乾ドック、繋船堀が設けられる計画で、埋立地の北で輸送船から降ろされた鋼板は、マーキング、ガス切断、小組立の過程を経てブロックとなり、一方向に移動しながら船台上で船体となり、進水するという理想的な工場内物流であった。
「N工場」はディーゼルエンジンや蒸気タービンその他の主機、補機のほか発電所用水車など陸用の大型回転機械などを建設する計画であった。
1944(昭和19)年3月15日、N工場は広島機械製作所、S工場は広島造船所として発足した。
既にその前年、埋め立て中に構築されていた第1船台、第1船台で第1番船、第2番船が起工されており、1944年6月20日に第1番船「久川丸」が進水した。
まだクレーンもなく、未完成であった船台で、先輩が苦労して建造したのであろう。
広島造船所の創設20周年にまとめられた小冊子には「罫書きされた鋼板は金鋸でひき、ハンマーで叩いて曲げた」と書いてある。
これは1956(昭和31)年当時の広島造船所である。
入社したのは、その7年後のことである。
江波の埋立地の南西側はまだ陸だか海だか判然としていなかった。
東側の艤装岩壁と、その南側に第1船台から第3船台までが出来ており、第4船台は中途で建造が中止されていた。
そんな状況なので、当時の江波担当副所長の梅住 剛氏が「私の在任中に構内の道路舗装を終えたい」という挨拶を憶えている。
約10日間の本社集合教育が第1期教育であり、事業所に移ってからは第2期、第3期の教育が始まった。
第2期教育では、観音地区配属予定者は江波で、江波地区に配属が予定されているものは観音地区で現場実習が行われた。
技術系も事務系も一緒であった。
第3期教育では配属予定の部課で、職場体験実習のようなものであった。
それぞれに指導員が付き、毎日実習日誌をつけて第2期では勤労課長、第3期では配属予定先の部長まで査印を押していた。
新入社員を希望していた部課では、入社のときから成績や本人の申告書から配員を決めていたようであるが第3期実習にかかる頃、造船設計部長と造船工作部長の面接があった。
私は設計技師も現場の担当技師も希望していたが、申告書には造船工作部志望と書いていた。
ところが部長面接の前夜、一緒に入社した北川がどうしても現場に行きたいと言うのである。
一日中、大勢の居る処で机に向かって座っているのは考えただけでも嫌だというのである。
とうとう根負けして、北川に工作部を譲ることにした。
部長面接の当日、両名とも現場志望と言ったが、結局1人は設計部に行くことになり「私は設計部でも結構です。」と言った。何様のつもりと思われたことであろう。
梅住工作部長は私が工作部に行くものと思っていたようであった。
7月1日付けで「造船設計部基本設計課殻計係」の見習甲となった。
見習工のようであるが正式な職名であった。