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淡水から広島までの一千浬(31)

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このシリーズ第19回で提示した写真で郊外線バス乗り場があったあたりに朝日会館というビルが建った。
オープンは1958年12月であった。

7階にはロードショウ劇場があった。
そのエレベーターホールの脇にはコンサートホールがあり、何時もレコードコンサートをやっていた。クラシックの曲が多かった。

屋上には、広島で初めてのビアガーデンも開設された。
ステージが設けられ、ハワイアンバンドが連日演奏していた。

1962(昭和37)年6月16日、クラスメートに朝日のビアガーデンに行こうと誘われたが自宅に居た。

4年生になったその年の6月6日に、広島造船所で三菱造船の採用試験があったのである。
採用試験とは言っても面接だけである。面接室では造船設計部長、造船工作部長、研究部(広島)長、人事担当副所長が窓を背に掛けていた。
流体力学の基礎知識を問うような質問もあったが、実施中の卒業研究についていろいろ聞かれた。
当然、希望する配属地や業務内容についても聞かれたと思う。
その結果を聞くまで何となく飲みにゆく気がしなかったのである。

午後5時過ぎ、電報が来た。
当時、家に電話を敷いているところは少なく、急ぎの知らせは電報であった。
紙屋町の電報局には青く塗った電報配達用の50ccのバイクがズラッと並んでいた。

6月16日、マルノウチ、コ4,25
サイヨウキマリタ」アトフミ」ミツビ シゾ ウセン

広島局の受信は午後4時55分である。
同期の合格第一号であった。

歩いて朝日ビアガーデンまで行って、クラスメートの仲間と飲んだ。
800cc程度のの大ジョッキを6杯くらいで、後は中ジョッキにした。
女学院短大の英文科も同席していたと思う。
工学部に入って女学院の英文科と一緒にハイキングに行ったりしたことがあり、何度か連携したことがある。
(同期の一人はそのとき知り合った人と結婚している。)

そのあとは、中央通りのスタンド「山」に行った。
ここは船舶工学科行きつけのスタンドバーで、上級生が居ると飲み代を払ってくれた。
「船舶」のノートもあった。
当時、この店では勘定のとき飲んだ量をセルロイド(?)の物差しで測っていた。
「何センチだから、代金はこれだけです。」というのである。
何でも、店の名前は山岳部の先輩が始めたからとか聞いたことがある。
宝塚劇場脇の歩道から地下に降りた小さな店であった。

広島の朝日会館は、その後「アラビアのロレンス」など洋画のロードショウを見に行ったりしていたが2010年の暮れに解体工事が始まって、そのあとは新しいビルを建設しているらしい。

その間、ほぼ半世紀であった。

工学部の教官は、三菱広島の設計課長であった浜本先生と、九大の造船科から造船所の実習に行き、その騒音に驚いて研究室に残った川上先生が教授で、そのほか助教授、専任講師が数名居た。
何れも我々が在学している頃、学位をとった。

中には、その先生が街に飲みに出る日と、パトカー出動の相関係数の高い先生も居た。
近郷の名士だそうであるが、街で行き会う人に説教をするのである。
パトカーが来て決着の付くことが多かった。

学部に進学して我年次のチューターであった先生は金属材料の分野に特化し名古屋の大学に転勤になった。

卒業研究は推進器や舵に関する流体力学に関するものであった。
指導教員の専門とは少し異なっていたが、何しろ先任教授であったために必要な機材など研究費に困ることはなかった。

ただ、卒業研究の発表会では指導教員と対立する教授の追求が厳しかった。
そういう人間関係を見聞したり、小規模ながら高度な技能を持つメーカーとの交渉などで実社会を少し経験したような気がした。


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2012年02月03日 10:21に投稿されたエントリーのページです。

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