淡水から広島までの一千浬(29)
1959(昭和34)年4月、広島大学に入学したが、新制の広島大学は広島市東千田キャンパスには大学本部、文学部、理学部、教育学部などがあり、電停で一つ先の千田町キャンパスに工学部、そこから御幸橋を渡った皆実町に教養部があった。
このほか教育学部東雲分校、三原分校、福山分校、それに現在、広島商業高校のある江波のキャンパスに政経学部という風に別れていた。
旧制の広島文理大学に広島高等師範学校、広島工業専門学校、広島高等学校、それに新制の広島医科大学まで統合して出来た新制大学であり、多くのキャンパスに別れていた。
当時の教養部は一年次および2年次のおよそ半分、外国語や体育を含む教養各科目を履修していた。このため、教養部には広島高等学校のあった皆実分校が用いられた。
入学式も、見出しの記念写真撮影も皆実分校で行われた。
チューターは、ドイツ語の安田という教員であった。
工学部船舶工学科(定員30名)として26名のほか、工業教員養成課程枠の1名、それに復帰前の沖縄から1名、香港とパキスタンから私費留学生各1名で、総勢30名であった。
この中に、本当に船舶が好きで本学科に入ったのは、私のほかには1人しか居なかった。松山、愛光高校出身の日野久志であった。
彼とは学生番号が連続していたので、教養部の体育実技、物理の実験などペアで受講するときは何時も一緒であった。
松山は三津浜の出身だという。松山市の中央部にある駅は「伊予鉄松山」で、国鉄予讃線の「松山」駅は町外れであった。そこから海辺に出たところに三津浜の船着き場があり、伊予鉄もここまで延びていた。松山観光港と言われる高浜港はさらにその先で、伊予鉄の駅まで短距離のバスが接続していた。
関西汽船などの観光船を繋岸するために設けられた外港である。
その頃、広島との連絡線は三津浜に接岸していたが、いまは高浜に集約されているのだろう。
授業だけでなく、遊びに行くのも何時も日野と一緒であった。
彼とは岡山にも遊びに行ったし、彼の知人宅にも二人で行き、「御神酒徳利のよう」と言われたこともある。
機械工学科や電気工学科は何処にでもあるが、船舶工学科あるいは造船学科というのは極めて少なかった。
国立大学では東京大学、大阪大学、九州大学、横浜国立大学の4大学で、公立では大阪府立大学のみ、私立では三年制の長崎造船短期大学があるだけであった。
短期大学と言っても2年間で造船技師を養成するのは無理で3年制であったが、後に4年制に移行し、長崎総合科学大学となった。
学科定員は各大学とも30〜40名程度であった。
校内実習や夏休みを利用した造船所における実習を考えても、それ以上定員を増やすことは無理であった。
教養部として社会科学や自然科学を、他学部生と一緒に学ぶのは良いと思った。
当時、市内各地にキャンパスが分駐しており、教養課程がなければ同じキャンパスに学ぶことは出来なかった。
しかし、教授、助教授など本来同格である教員が、教養部に在籍していることで一段低く見られることがあったようで、後年教養部は廃止され、総合科学部が新編された。
2年生になると、皆実分校の教養部と千田町の工学部で授業が行われた。
物理、数学など各学科共通の授業もあり、船舶算法とか鋼船構造法など船舶工学固有の授業もある。
教養部と工学部の位置は数百メートルしか離れていなかったので、午前中は教養部、午後は工学部で授業を受けることは可能であった。
当時は若い者の間で、社交ダンスが流行っており、各科の追い出しイベントもダンスパーティをやることが多かった。
卒業して入社した造船所でも毎年、設計部恒例のダンスパーティが開かれていた。
ダンスなんて何だか柔弱に思えて習う機会を失った。
当時はカクテルが流行っており、安月給のサラリーマン家庭にも錫製のシェーカーがあった。
大学祭でも、ウィスキーの水割りみたいなものはメニューになく、炭酸水とシェーカーで振ってグラスにレモンスライスで香りを付けていた。
缶ビールが、日本で発売されたのは大学に入った年であったと思う。
当時、喫茶店にもよく行っていた。
入学前に国鉄広島に勤めて居た叔父が連れてくれて行ってくれた、駅前の「パール」はまだ営業しているそうである。
そのころジュークボックスというのがあった。
何時か、船舶クラスメートの日野と田島と、胡町の喫茶「モンブラン」に入った。
3人とも、だれか珈琲代くらい持っていると思って注文したのであるが、誰も持っていなかった。
田島が「ちょっと待っていてくれ」とパチンコ屋に行って珈琲代を稼いできた。
そこのレジの小母さんにも名前を覚えられた。
冬になると皆で、県境のスキー場に行った。
駅のプラットホームを降りるとそこがゲレンデで、線路まで転んでディーゼル車に当たるものも居た。
当時はスキーウェアにこだわる者もおらず、またそういう時代でもなかった。