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淡水から広島までの一千浬(28)

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1959(昭和35)年12月9日、祖母 原田ユクが亡くなった。
私が広島大学に入学した翌年であった。

祖母の67年の生涯は波瀾万丈の人生であった。
若くして夫に先立たれ、小さな女の子を連れて淡水の伯母を頼って渡台し、遮二無二働いた。

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そして淡水街の嘱託として公会堂の管理を任され、宴会や仕出しを営んでいた。
公会堂の小母さんと呼ばれて内地人からも現地人からも慕われていたという。

そして、私のことを赤ん坊の頃からかわいがって何処にでも連れて行ってくれた。

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それが戦争で一変してしまった。
戦時中は爆撃や銃撃に遭い、我が家は敗戦になって無一文となり、引き揚げてからも基町の市営住宅に入居するまでは山口県熊毛郡の親戚に身を寄せるなど肩身の狭い暮らしを忍ばざるを得ない時期もあった。

戦後の、そういう環境のせいもあってのことであろうが、晩年は喘息に罹っていた。

それでも、何とか広島での生活にも見通しがたつようになっていた。

祖母は晩年、「私の一生を書いたらそれは面白いものになる。」と笑って話していたことがある。

祖母と岩田や櫛ヶ浜、下松などに行ったこともある。
淡水で家族として一緒に住んでいたマキ子さんは下松の福田さんと結婚して息子、娘も授かっていたので下松にも行っていた。
福田さんも立派な人物であった。
私も大変お世話になった。

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私は子供の頃からお婆ちゃんの肩を叩いたり揉んだりしていた。
また、それを喜んでくれた。

亡くなったのはその年の師走であった。
私は入学して2年目であったが、妹の恭子は基町高校の卒業を控えて、三菱銀行に入行が決まっていたのを喜んでいた。

私のことは船舶工学科に入ったのだからと何も心配はしていなかった。
大学に入ると、桐の下駄や朴歯の下駄を買ってくれた。

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明治、大正期の学生のように、破れた帽子を被り、学生服の腰にタオルを下げた書生のような格好を見て喜んでいたように思う。
それで走ったり、跳んだりするものだから下駄は鼻緒が切れたり、割れたりした。

祖母は、母が女学生の頃から琵琶を習わせていた。
吟詠も好きだったのであろう。

広島市営の高天原墓園の一区画に「原田家の墓」として墓碑を建てたが、後年 母が詩吟の段位を取ってから墓地で祖母に聞かせようと漢詩を吟じたことを思い出すことがある。

そして翌年、恭子は基町高校を卒業し、三菱銀行広島支店に勤務した。


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2012年01月31日 10:25に投稿されたエントリーのページです。

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