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淡水から広島までの一千浬(27)

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修道高等学校のイベントの一つは秋期運動会恒例の3年生による仮装行列であった。

それぞれ組毎に出し物を相談し、準備するのであるが、この年の一組は何でもありの成り行き任せであった。

ボール紙で作った兜をを被っている者、弁慶など僧兵に扮した者、鞍馬天狗のような頭巾を着けた者、丹下左膳、虚無僧、若衆などが居るかと思えば、日露戦争の陸軍兵士、大東亜戦争当時の将兵、果ては自衛隊の制服を借りて着用している者もいた。

中には真知子巻きのような気持ちの悪い女装や、いわゆるこも被りまで居た。

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上の写真の右隅から自分の影像を切り出したものである。

旧海軍士官の詰め襟は父が知人から借りてくれた。
制帽は広島市水道局の守衛から借りたものである。
双眼鏡は家にあったもので、手袋は綿の軍手、勲章のようなものはどこかの従軍徽章かなにかである。
この写真では判らないが、腰には短剣も吊っている。

この格好で、家族席に弁当を取りに行ったら「兵学校の生徒が来ている。」という声が聞こえた。
江田島は修道のある南千田の鼻先であり、その十数年まえまでは海軍兵学校の生徒が広島の街も歩いていたものである。

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プラカードは父が書いてくれたものである。
右の旧陸軍の仮装をしているのは一緒に浪人して広島大学に入学したHMである。
左の自衛隊の制服を着ているのはKである。
東京の私学に行ったと思うが、今頃どうしているのであろう。

当時、国立大学は個別に入試を行っていたが、受験生に2度の受験機会を与えるということで、試験期日を2度に分けていた。
広島大学は1期校、岡山、山口、愛媛、香川の各大学は2期校で、四国では徳島大が1期であったように憶えている。

当然、自宅から通学できる広島大学の工学部を志願し、2期校として愛媛大学に新たに設けられた電子工学科に申し込んだ。

合格発表の日に工学部に見に行ったが私の受験番号は載っていなかった。
3年生になると1、2年の頃ほど勉強に身が入らなくなったのである。
このときは5、6名で受けたが総倒れであった。

それで愛媛大学も私学も受験することなく浪人生活を決めた。
当時、広島には英数学館とYMCAの予備校があったが悩んだ末、YMCAに決めた。

ここで広島者のほか、山口県や鹿児島県から来た友人が出来た。

特に上関の対岸、室津から来たMMに誘われて、音楽喫茶に行くようになりクラシック音楽を好むようになった。

HMとは尾長のやまで小型ロケットの打ち上げ実験をやった。
東大生産技研の糸川英夫氏がペンシルロケットの実験をしていた頃である。
燃焼に用いる硫黄や亜鉛粉末は、高校指定の教材屋が何も聞かずに売ってくれた。
精密な観測機材はなかったが、終いには結構飛ぶようになった。
浪人時代も楽しい思い出が多い。

1959(昭和34)年3月9日に合格者発表に行き、船舶工学科の受験番号45番を確認した。
父は、よほど嬉しかったらしく「我が家のメモ」に現役で受験したときから合格するまでを数ページにわたって書いている。
父が合格者発表を見に行ってくれ、嬉しくて泣きながらバイクで帰ってきたという。
その夜、ビールを何本でも買ってこいと大いに祝杯を挙げた。
それから数日、祝杯祝杯でとうとう急性肝炎になった。
入院した広島市民病院の広本医師が良い目にあったのだからこれくらいは良いでしょうと笑ったという。父は笑われても嬉しかったとメモを締めくくっている。

唐津から広島大学に受験に来た従兄の雄二は応用化学を同じ受験番号45番で受験したが、上記HMとともに応用化学科に合格し、入学した。

彼らは、よく家に遊びに来て、食事のあと祖母を交えて麻雀や花札などをして帰った。

この年の10月に、父は復職していた水道工事店の専務取締役になった。
まだまだ裕福というには程遠かったが、やっと少し明るさが見えてきた頃であった。


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2012年01月30日 10:20に投稿されたエントリーのページです。

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