高校になると中学時代に袖口に付けていた白線はなくなったが、襟章は持ち上がりであった。
白線は、袖口から10センチの処に1センチ幅の白テープを縫い付けてあった。
戦時中、空襲で避難するときに他校の生徒と識別するために付けられたと後で聞いた。
当時の中学は5年制であった。戦後学制が改められたとき、新制の高等学校に白線は付けなかった。
襟章は入学年度によって緑、黄、赤、白、金茶、青のうちの「修道」バッジが指定され、順調に進学すれば6年間変わらなかった。
卒業した年に入学した後輩がその色を引き継ぐのである。
従って、「Ⅰ」とか「Ⅱ」とか言う学年章は付けなかった。
いわゆる進学校であったので、中学2年までに中学のカリキュラムは修了し、中学3年からは数学や化学は高校の教科書を用いていた。
高等学校から編入した生徒は大変であったと思う。ただ一組増えるだけなので倍率が高く、その難関を通過した編入生はよく頑張って落伍するものは居なかった。
高等学校に上がるときに、音楽/絵画/書道を選択する者によって組編成が行われた。
音楽を選択したものは1クラスだけで、1組となった。そのほかは絵画か書道である。
3年生になるときに特別組(6組)が編成された。
東大、京大などを受験する組である。
当時、まだ蹴球はインターハイや国体で広大附属と2強が上位を占めていた。
その6組で、サッカー部のレギュラーとして活躍していたのもいた。
サッカーと言えば、当時国泰寺高校のグラウンドはサッカー競技場のように3方に芝生の観覧席があった。ここで行われる決勝戦は毎年のように付属と修道であった。
世間では進学校と言われていたが、ガリ勉などとは程遠く高校時代は楽しく過ごしていた。
弁当は1校時のあと食ってしまい、昼には自転車で近くのうどん屋に行った。
当時、TVの放送が始まったばかりで、朝のニュースのあと放送はなく、昼のニュースのあと料理番組が終わると夕方まで放送を休止していた。
その料理番組を見て学校に帰るのである。
たまに吉島の飛行場の辺りまで行き、授業が始まっていた教室に戻ったこともあった。
高等学校になっても貸し切りバスを連ねて備後の仏通寺などに行った。
修学旅行の代わりにはならないが、我々の年は岡山の後楽園、鷲羽山に行き下津井に一泊して帰った。
現在、鷲羽山には観覧車やホテルがあり、壮大な瀬戸大橋が展望できるがその当時は松の生えているだけの岩山であった。
見出しの写真は、後楽園で撮ったもので、懐かしい顔々が見える。
写っている先生は、後に校長を務められた楢崎先生(化学担当)である。
私が中学生か高校生の頃、山口県熊毛郡から山本マキ子さんが家に来た。
広島の的場町にある繊維関係の会社の一つに就職して、家から通うことになったのである。
淡水の頃のように家族で暮らすことになった。
マキ子さんは母のことを、姉さんと言い父のことを先生と呼んでいた。
今でも元気にしていることは有難いことである。