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淡水から広島までの一千浬(13)

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鹿児島縣のウェブページから転載した鹿児島市街の航空写真である。

正面に桜島を望み、鹿児島港が見える。

鹿児島港と言っても、鹿児島中央駅(旧西鹿児島)から指宿枕崎線で4区間も離れた谷山港など、鹿児島港にはヨットハーバーを含め7つの港区がある。

写真のほぼ中央が本港区であるが、海防艦34号が入港したのはおそらく右端の新港区だったのであろう。
写真の右端に見える川が甲突川で、それを渡ったところが天保山町である。
天保山公園という小さな公園もある。その近くにある市立天保山中学校に引揚者は集合した。
ここで何日も留め置かれた人も居たようであるが、我々はその翌日、西鹿児島駅から鹿児島本線で博多に向かった。
列車が走行している間に詰め襟の学生のようなボランティアが「皆様、ご苦労様でございます。」と内地への帰還歓迎の挨拶をしていた。

父は「鹿児島本線の窓から山桜が見えた。私の34歳の誕生日であった。」とノートに書いている。

博多駅で、家族として一緒に暮らしていたマキ子さんは山口県熊毛郡に帰っていった。

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博多駅は、その後建て替えられ位置も少し変わったが写真は当時のものである。

博多駅で筑肥線に乗り換えて本籍地の浜崎に帰った。
駅構内の土間に、ごろごろと生きているのか死んでいるのか判らない浮浪者が沢山居た。
小学生くらいな乞食が何人も居た。
待合室にいる人に食い物を貰うと、そのまま彼の親分のような者のところへ持って行っていた。
人が見かねて「これは持って行かずに、ここで食べなさい。」と言っても食べずに持って行っていた。

Nijinomatsubara.jpg

本籍地は佐賀県東松浦郡浜崎町である(平成の大合併で、唐津市浜玉町となった)。

写真は鏡山から唐津湾を望んだもので、手前に日本3大松原の一つ、虹の松原が見える。
左端は松浦川の向こうに唐津の市街が広がっており、その沖の小高い島は高島である。

右端の稜線は福岡との県境である。

父は、浜崎の街から自転車で虹の松原を唐津中まで通っていた。

博多駅で筑肥線に乗り換えて、福岡県最後の駅が鹿家で、佐賀県に入って最初の駅が浜崎である。
鉄路はそこから虹の松原に沿って走り、写真の正面あたりに虹の松原駅があり、次は虹の松原西端の東唐津駅であった。

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今は国道が走っているが、明治・大正時代には軽便鉄道が走っていたとも聞いている。

3月下旬に父の義母が一人で暮らしていた浜崎の家に入居した。
昔の街道に面した家で、母屋と離れの間の庭には池があり鯉が棲んでいた。
その側に苔むした杉や石灯籠もあった。
海や川に近いので赤手蟹が歩いたりしていた。
母屋には庭に面した廊下があり、籐椅子が置いてあった。
そこから隣との仕切塀にそって渡り廊下があり、その手前に手水鉢があった。
母屋の屋根裏には機(はた)が2、3基あった。
雨戸の節穴から射し込む光で、障子に向いの堤ブリキ店が逆さまに写るのが面白かった。
離れは2階屋で、渡り廊下はさらに裏の厠まで続いていた。

裏庭には大きな柿の木があり、蘭のような花も植えていたが家庭菜園のようであった。

帰国したとき、夜は母屋で父と一緒の夜具で寝た。
重くひんやりとしたかい巻きで、掛け布団に袖がついていると思った。
何しろ寒いので身体が自然に動く。
父が「じっとしていなさい」と言うが、また動いてしまうので困った。

4月に浜崎小学校に入学した。
担任の宮崎操先生は父の教え子であった。

小学校への登校は1キロ程度で、川土手に桜がきれいであった。

しかし、終戦で引き揚げた内地に砂糖は無いと思っていたが、米も野菜も塩もなかった。
塩は浜から海水を汲んできて、それを煮詰めて調理に使っていた。

鉄道の軌道敷に生えている草や蕨を採りに行ったこともある。

土地の人も草を食用にしようと煮て食べたり、煎じて茶のように飲もうとして体調を崩すものが居た。

主食の米も魚も配給で、しかも量が足りなかった。

ヤミの食料品を食べないで配給食料のみ食べ続け、栄養失調で死亡した佐賀県出身の裁判官もいた。
彼は食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。
配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのに、それを取り締まる自分が闇米を食べてはいけないと思い、1946年10月初めから闇米を拒否するようになった。
彼は配給の殆どを2人の子供に与え、自分は妻とともに殆ど汁だけの粥をすすって生活していた。親戚や知人が食糧を送ったり、食事に招待しようとしたがそれも拒否した。自ら畑を耕して芋を栽培したりして栄養状況を改善する努力もしていたが栄養失調により病となった。しかし、担当の被告100人を未決の状態にしてはならないと療養もせず、1947年8月27日に東京地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決文を書いたあと佐賀県杵島郡で療養し、10月11日に33歳で死去した。
彼は被告人には同情的で、情状酌量した判決を下すことが多かったという。

このほか、東京高等学校ドイツ語教授、青森地裁判事などが食糧管理法を遵守して餓死している。

私も浜崎小学校に弁当代わりに蒸かしたサツマイモを持っていったこともある。

当時、戦災孤児も多かったが、彼らを救済するために学校給食を実施しようにも食糧難で実施出来なかった。

後に小学校の修学旅行に行ったときも、各自で毎食分の米を持参しなければならなかった。

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2012年01月17日 10:59に投稿されたエントリーのページです。

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