« 淡水から広島までの一千浬(9) | メイン | 淡水から広島までの一千浬(11) »

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水から広島までの一千浬(10)

zenkohji_2.jpg

1945(昭和20)年8月15日には、重大放送があるというので善光寺の本堂に座って聞いたが、雑音が多くよく判らなかった。

しかし、天皇陛下の「終戦の詔勅」であることは判っていたようで、皆泣いていた。
父や夫を失う者も多く、家財道具も何もかも無くしてしまったが、爆撃や銃撃から逃げ回ることはなくなった。

善光寺から淡水に帰るときには、教員がラバウル小唄の替え歌を作り、「さらば 善光寺よ、また来るまでは・・」と唱いながら下山した。

僅か3、4ヶ月のことであったが、善光寺や北投のことはよく憶えている。

上の写真は2004年に訪ねたときに撮ったものである。

zenkohji_1.jpg

北投の温泉街から急な坂道を登ったところに石段がある。

zenkohji_2a.jpg

この日本式石灯籠は戦後献納されたもので、1990年という字が読める。

淡水に戻って住んでいたのは、紅毛城近くの烽火一四であったと思う。

屏東の潮州で父は終戦を迎えた。
その前夜と前々夜、部隊本部で、これからどうするか話し合いが持たれた。
将校は当てにならないので下士官だけで、兵は父一人であったという。
山の蕃地に入り、あくまで戦うというもの、戎克で中国大陸にわたって向こうで活路を求めるなどいろいろ討議されたようであるが、結局結論の出ぬまま解散となり、パインの缶詰などをリュックに一杯詰めて部隊を後にした。
内地から来ていた兵隊は復員船で帰った。

父は、重いリュックを背負って、北投の善光寺経由帰宅した。
まだ3歳になっていなかった妹は、帰宅してもそれが父とは判らなかった。

引き揚げ船に乗るまでは、その日から家族を養わなければならず、衣類の売り食いなどをしていた。
父は船会社の倉庫番や、荷車曳きもやったと記している。

国府軍の進駐行進があったが、裸足で雨のなかを唐傘をさして、金盥まで提げての行進は淡水の街で歓迎しようと集まった人達を落胆させた。

その後、家の周りでも言葉の分からない警官だか兵隊だかがうろうろして、あるとき転がったボールを取られ、父に告げると取り返してくれた。

父が仕事で外出しているときも誰何されたらしい。
三回聞いて回答がなければ撃っても良いと言うことであったらしく、拳銃を構えて「誰か」、「誰か」、「誰か」と聞くのであるが、拳銃を構えた手がブルブル震えていたと笑っていた。

何も持って帰れないので、日本人は家の前で、家具や衣類を投げ売りしていた。
売って代価を得ても意味のないことであった。
国府軍政府は、それぞれの世帯人数あたり千円、現金を持ち帰ることしか認めなかった。不動産はもとより、有価証券も預金も全て接収し、自分で持てる範囲の物を持たせて厄介払いしたのである。
しかし、我々の親の世代は「以徳報怨」という宣伝にのせられて蒋介石をある程度評価していたようである。
半島や満州からの引揚者よりはマシであったが・・・。

やっと連絡があり、台北の総督府に集結したのは1946(昭和21)年3月であった。

About

2012年01月14日 10:38に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「淡水から広島までの一千浬(9)」です。

次の投稿は「淡水から広島までの一千浬(11)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。