私は、善光寺にいるときにひどく母に叱られたことがある。
疎開していた学童にちょっと怪我をさせる悪さをしたのである。
そのとき母は学童の逃げ込む防空壕ではなく、別の小さな防空壕に連れて入った。
そして、私のしたことがどれほどいけないことかをしっかり注意し、叱った。
5歳になっていた私は、泣いて謝り許しを請うた。
そしてそのあと「お父さん!」と叫んだと、後に母は言っていた。
また、あるとき毛虫を掴んで棘の痛さに泣いたこともある。
灯火管制の本堂の縁側で、夕方の薄暗がりに何か動く物がいたので手で掴んでしまったのである。
善光寺には庭があり、時計草の実が成っていたのも微かに覚えている。
稀に下の街から登ってくる乗用車を上から見ていて、学童連が「流線型の自動車」と言っていたこともあった。
学童の給食用の大きな冬瓜を現地の人が天秤棒で担いで登ってきたりしていた。
稀に母が下の街に連れて行ってくれたこともあった。
買い物でもあったのであろう。
当時は菓子類が無かったこともあるが、善光寺では学童を与っていたので、おやつを貰うようなことはなかった。
公園の芝生の一角、温泉が湧いているところで鶏卵をゆでてゆで卵にしていた。
その傍で、甘酸っぱいカステラのような蒸しパンを母に貰って食べた。
地熱谷も近くで見た。
町外れの小川にも温泉が流れていて、淀みの一つはちょうど湯浴みに適温であったのであろう。
浮浪者が、衣類を洗濯して木の枝に乾して、その下で湯浴みしていた。
終戦末期にもそんなのんびりした風景もあった。
合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが死亡したという報道を知ったのも善光寺にいる時であった。
見出しの写真は戦後、訪れた善光寺の入り口近くに立っていた木瓜(パパイヤ)である(右に屋上展望台の手摺りの一部が見える)。