学童は、食事時には本堂に行儀良く正座して給食を待ち、皆で「頂きます!」と言ってから箸を取った。
箸と言えば、炒飯などに入っている肉の小片を、自分の箸箱の上に載せておいて食べたりしていた。
給食と言っても、山寺に疎開してのものであるから、一汁三菜など出来る訳がない。
普段は、野菜や細切れの肉などを入れた炒飯的なものしか出来ない。
その小さな肉片をとっておいて食べるのである。
母たちは「そんなことしないで食べなさい」と指導することもあったが、学童は多くて面倒見切れるものではない。
好きなものを残しておいて食べるあの流儀である。
昼間は寺の庭や、その周りで遊んでいたが、夜はどうだったのであろうか?
まだ、寝小便をするのも居る年頃である。
引率の教師や保母は気を抜く間もなかったことであろう。
時には皆で遊技や、学芸会もどきのこともやっていたように思う。
憶えているのは、教師のひとりが学童に「証城寺のタヌキ囃子」を教え境内で演じたことなどである。
この野口雨情の詩に、中山晋平が曲をつけた童謡は、木更津市の證誠寺に伝わる伝説に基づいているが、戦後、進駐軍兵士の間で「Come, come everybody. How do you do and how are you ?」と英語で歌詞をつけて爆発的に流行したことがある。
半島でも「北岳山の歌」という童謡に改編されていると聞く。
しかし、ここでも空襲警報のサイレンが聞こえると本堂裏の山に掘った防空壕に避難していた。
艦載機の空襲が常態化すると、山の中まで銃撃していた。
墓地の石碑も機銃弾で欠けていた。
そして、真鍮の薬莢が沢山落ちていた。
ある日、いつものように空襲警報のサイレンが鳴り、学童を防空壕に避難させたあと、本堂の縁で艦載機が北投の街を銃撃するのを見ていた。
突如、1機が善光寺に向かって上昇してきた。
慌てて逃げたが、飛行機は速い。逃げ切れるものではない。
母と祖母は、私と妹の手を引いて本堂の横の炊烹所に駆け込んだ。
そして流しの下に私達を押し込んで、その上に覆い被さった。
その母の肩越しにグラマンが12.7ミリの機銃弾を竹葺きの屋根に撃ち込んで、それが赤く炸裂するのが見えた。
アメリカには日本の武士道や欧州の騎士道に当たるものはない。
船舶を撃沈し、ボートや筏に載って浮いている者を機銃掃射で皆殺しにした例もある。
アメリカでは今でも自衛のために拳銃を持つことが認められている。
山の樵や、寺院の修行僧も、幼気な学童も容赦はなかった。
後に学生になってから、グラマンの銃撃を受けたと言っても信じる者は居なかった。
アメリカ軍の反攻は、連戦連敗の中華民国をあてに出来ず、台湾攻略を断念し攻撃対象を琉球(沖縄)諸島に変換した。
このため、父の居た台南部隊も留守部隊を残して沖縄に投入された。
多くは輸送船が潜水艦に沈没させられ、何とかたどり着いても殆ど戦死したものと思われる。
父はマラリアに罹り、腎臓結石なども併発して野戦病院に入院していたため聯隊本部で終戦を迎えた。
写真は2004年の夏、訪れた善光寺の屋上に建っていた慰霊碑である。