1945年になるとアメリカを主体とする連合軍側はルソン島に上陸を開始した。
次は台湾だと誰もが考えた。
そして、子供達だけでも助かるものなら助けたいと淡水小学校の学童疎開が検討された。
いろいろな疎開先が検討されたに違いないが、安全なところなどあるはずがなかった。
結局、北投庄の山の上にある善光寺に行くことになった。
引率出来る教員も限られ、子供達の食事や身の回りの世話をするものが必要であった。
父も出征していたし、祖母は淡水公会堂で料理や仕出しもやっていたこともあるので、我々家族は淡水小学校の保母として同伴することになった。
上掲の写真は、2004(平成16)年8月に、当時一緒に疎開した妹と、マキ子さんと北投の善光寺に行ったときのものである。
善光寺は半地下のような作りでその屋上が展望台になっていた。
奥にはパゴダ風の慰霊碑も建っていた。
あとで聞けば、本堂も当時のまま畳敷きであるという。
堂守にお願いして入らせて貰えばよかった。
当時は境内がもっと広いように思っていた。
本堂に向かって右側に学童の食事を用意するために竹で屋根を葺いた炊烹所が作られており、本堂との間の通路を行くと奥に防空壕が掘られていた。
ここには我々よりも先に、二人の婦人が疎開していた。
母の話によると自害用の短剣も見せて貰ったという。
我々が疎開しているあいだに、2機の戦闘機が飛来したことがあった。
名残惜しそうに3回、山の周りを旋回してから前線に向かって飛んでいった。
聞いた話では、特別攻撃に出撃して、母の疎開している善光寺に今生の別れを告げて往ったと言うことであった。