父が応召している間で、戦争も押し迫って来ているなか、三芝(小基隆)から淡水に戻ってきたようである。
そして、淡水郵便局の別棟(ここで、1966年にハリウッド映画「砲艦サンパブロ」のロケーション撮影が行われたというが、その後焼失してしまった)に身を寄せた。
そこは当時、私が生まれたときに取り上げてくれた産婆さんである市川ヲコさんが管理人をしていたそうである。
2階の一番左の区画に居たような気がする。
そこで、母たちは電信隊の兵隊に賄いの奉仕をしていた。
妹は、眼鏡を掛けた電信兵を「お父さん」と思っていたらしい(父も眼鏡を掛けていた)。
1944(昭和19)年10月12日から3日間、米第3艦隊の空母から来襲した艦載機が台湾全土を空襲した。
淡水は、その初日に銃爆撃を受け、民間人が20人くらい犠牲になった。
淡水駅の傍にあったライジングサン石油のタンクが炎上し、メラメラと燃える炎を背後に、祖母と母に手を引かれて夜道を山手に向かって逃げた。
妹はその年の12月に3歳となった。
当時は庭のある家では、そこに防空壕を掘っていたし、小さな子供にも綿の入った防空頭巾を持たせていた。飛び散った破片から頭部を護るためである。
当時は、警戒警報、空襲警報、空襲警報解除、警戒警報解除、防護警報などが頻繁にサイレンで響き渡り、このような子供にもそのときとるべき行動を教え込んでいた。
郵便局の前の大きい防空壕に逃げ込んだこともあった。
小さい妹は暗くジメジメした壕に居るのが嫌で「空襲警報解除よ」と言ったりしていた。
Mさんは、淡水の我が家から台北二高女に列車通学していたが、モールス信号や手旗信号を教わっていた。
末期には「送るも征くも、今生の別れと知れど微笑みて・・」という特攻隊を送る歌を涙ながらに唱うこともあった。
空襲で民間人の犠牲が出るようになって、せめて子供達だけでも生き延びて欲しいと学童疎開の話しが持ち上がった。