父は唐津中から佐賀師範に進み、1930(昭和5)年から郷里で、横田尋常小学校、浜崎尋常小学校の訓導を勤めていたが、1936(昭和11)年の春に唐津の先の湊尋常小学校に転勤になった。
次男であった父は、何れはどこかに出なければならいと思っていたのであろうか? 翌年、台北州庁に勤めていた吉森八郎氏を頼って門司港から渡台した。
1937(昭和12)年3月に淡水公学校に勤務し、9月に臺湾総督府の教員免状を取得して判任文官である台湾公立公学校訓導となった。
母は幼くして父親をなくし、祖母に連れられて1923(大正12)年に渡台し、淡水小学校に入った。
祖母は当初、淡水街の経営する海水浴場「和樂園」の運営を任されていた伯母、浅野タツのもとに身を寄せていたが、懸命に働いていたようである。
昭和天皇即位大典(1928年11月10日)記念行事として砲臺埔の淡水稲荷神社隣接地に淡水街の公会堂が建設され、1930(昭和5)年4月に祖母は淡水街の嘱託として公会堂の管理人になった。
そこで板場さんのほか台湾人の料理人などと、和食や中華の宴会や仕出しを営んでいた。日本食の宴会は和室であるが、台湾料理は基本的に立食であるので本館横の煉瓦建ての洋館が用いられていた。
勤務を終わった独身教師連は、公会堂の奥の和室で食事をしていた。
淡水公学校の先任教員である小栗常寿氏が実質的な仲介者となって母との縁談が決まったらしい。
父は「話しが決まってからお膳の下に卵の特配があったり・・」とメモしている。
1936年に油車口で淡水神社の造営が始まり、1939(昭和14)年3月11日に竣工、鎮座式が行われた。
父と母の結婚式は1939年5月20日であった。
もし、3月に竣工することが判っていれば、淡水神社で挙式した筈であるが、縁談の決まったとき、まだ造営工事中で社務所もなかったのであろう。
結婚式は台湾神社で行われ、淡水公会堂に帰って披露宴を行ったようである。