明けましてお芽出とうございます
明けましてお芽出とうございます。
おかげさまで今年も穏やかな新年を迎えることが出来ました。
今年も宜しくお願い致します。
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明けましてお芽出とうございます。
おかげさまで今年も穏やかな新年を迎えることが出来ました。
今年も宜しくお願い致します。
明け方、うっすらと雪が積もって正月らしい凛とした冷え込みであった。
今日も年賀状が配達されてきたが、KGさんからのレターパックも届いた。
KGさんからの賀状には今日、台湾へ出掛けるとあった。
2006(平成18)年の大晦日に淡水の河岸レストラン「榕園」の河に張り出したテラスで食事を楽しんだことを思い出した。
春夏秋冬と四季の巡ってくる日本も良いが、常春の台湾も良いものである。
写真は昨年の淡水会で訪れた二見浦の夫婦岩である。
お正月はお餅を食べる。
日本では餅と言うと、搗き餅のことを指す。
蒸した餅米を臼で搗いたものである。
西日本では、熱いうちに手でちぎって丸めた、いわゆる丸餅(小餅)にするが中部から東日本に掛けては、搗いた餅をのし餅やなまこ餅にして切った、切り餅を焼くなどして食べる。
台湾にも「餅」の字の付く食べ物は多いが、材料は餅米とは限らない。
むしろ、どちらかと言うと粉ものが多い。
「台湾餅」というと、とても幅が広くなってしまうが母が作ってくれた台湾餅を思い起こす。
小麦粉と黒砂糖を型に流し込んだものであった。
大きなビスケットの缶のような容器に流し込み固めたものである。
切ってそのまま食べても良いが、黒砂糖が入っているので焼くと柔らかくて旨い。
今日はそんなことを思い出した。
当然、そんな写真はないのでウェブで探し出した写真を挙げた。
青森名物、鯨餅と言うそうだがこれに似ていなくもない。
年が明けたので、KGさんとボストンの博士と淡水を訪れたのは一昨年になる。
昨年、民国100年を記念して淡水国際環境芸術節(フェスティバル)が行われたが、淡水では古蹟の整備が積極的に行われている。
国民政府時代に台湾の歴史がなおざりにされていた反動か、台湾史を残そうという運動が盛んなのである。
紅毛城や滬尾砲台だけでなく、戦前の街長や木下画伯の旧居なども含まれる。
イラストは淡水古蹟博物館の発行した観光マップの一部であるが、(22)は淡水街長多田榮吉の旧居である。
ただ建物を保存するだけでなく、市民の文化活動に使われていると言うことは嬉しい。
ちなみに(6)は滬尾偕医館、(7)は淡水禮拝堂、(8)は淡水税務官邸(小白宮)、(23)は淡水第一漁港、(24)は馬偕博士の旧居、(25)は淡中八角塔、(26)は淡水女学校である。
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今年のお年玉にKGさんから本を貰った。
元日の消印のレターパックで送られてきた。
2日に羽田から松山空港に行くと聞いていたが、出発前に発送してくれたものであろう。
酒井 亨著「台湾人にはご用心!」(三五館刊)である。
面白いのでじっくり読ませてもらう所存である。
私は1940年2月に淡水で生まれ、1946年3月までそこに居た。
その間、1943年3月に父が三芝国民学校に転勤したので三芝(小基隆)に転居していたが、淡水に戻り、1944年10月12日の淡水空襲にも遭っている。
1945年5月には、淡水国民学校の学童を北投庄の善光寺に疎開させることになり、その祖母や母が祖母として同行したこともある。
台南の部隊に応召して、マラリヤに罹病しジャングルの野戦病院に入院していた父も9月には淡水に帰宅した。
翌年3月に台湾総督府に集結し、基隆から鹿児島に引き揚げ、その翌月、本籍地で小学校へ入学した。担任は父の教え子であった。
引き揚げたときは満6歳になったばかりで、記憶も断片的なものであるが思い出すことを順不同に書き綴ってみようと思う。
父は唐津中から佐賀師範に進み、1930(昭和5)年から郷里で、横田尋常小学校、浜崎尋常小学校の訓導を勤めていたが、1936(昭和11)年の春に唐津の先の湊尋常小学校に転勤になった。
次男であった父は、何れはどこかに出なければならいと思っていたのであろうか? 翌年、台北州庁に勤めていた吉森八郎氏を頼って門司港から渡台した。
1937(昭和12)年3月に淡水公学校に勤務し、9月に臺湾総督府の教員免状を取得して判任文官である台湾公立公学校訓導となった。
母は幼くして父親をなくし、祖母に連れられて1923(大正12)年に渡台し、淡水小学校に入った。
祖母は当初、淡水街の経営する海水浴場「和樂園」の運営を任されていた伯母、浅野タツのもとに身を寄せていたが、懸命に働いていたようである。
昭和天皇即位大典(1928年11月10日)記念行事として砲臺埔の淡水稲荷神社隣接地に淡水街の公会堂が建設され、1930(昭和5)年4月に祖母は淡水街の嘱託として公会堂の管理人になった。
そこで板場さんのほか台湾人の料理人などと、和食や中華の宴会や仕出しを営んでいた。日本食の宴会は和室であるが、台湾料理は基本的に立食であるので本館横の煉瓦建ての洋館が用いられていた。
勤務を終わった独身教師連は、公会堂の奥の和室で食事をしていた。
淡水公学校の先任教員である小栗常寿氏が実質的な仲介者となって母との縁談が決まったらしい。
父は「話しが決まってからお膳の下に卵の特配があったり・・」とメモしている。
1936年に油車口で淡水神社の造営が始まり、1939(昭和14)年3月11日に竣工、鎮座式が行われた。
父と母の結婚式は1939年5月20日であった。
もし、3月に竣工することが判っていれば、淡水神社で挙式した筈であるが、縁談の決まったとき、まだ造営工事中で社務所もなかったのであろう。
結婚式は台湾神社で行われ、淡水公会堂に帰って披露宴を行ったようである。
台湾神社、社務所前で撮った両親の結婚写真である(1939年5月20日)。
列席者は、前列左から、(祖母)廣川オツ、(祖父)廣川慶太郎、(媒酌人)松田公学校長、(新郎)廣川研一、(新婦)時子、(媒酌人夫人)松田サト、(淡水街長)中原 薫、(新婦の従姉妹)山本マキ子、(祖母)原田ユク。
後列左から、森田鶴吉、(新婦の叔母)山本益子、(山本夫妻の次男)山本睦美、(新婦の叔父)山本忠治、宮司、(海水浴場:祖母の伯母)浅野タツ、(友人)小栗常寿氏。
祖父、廣川慶太郎は帰国して10月8日に66歳で亡くなった。
淡水に帰って、公会堂の洋館で披露宴が行われた。
両親が結婚したとき、淡水新店で塩屋を営んでいた黒川さんの2階に住んでいたそうである。
三間あり、広廊下あり、ベランダありでとても住み心地の良い家であったという。
しばらくして龍目井の丹羽先生が転勤になり家が空いたのでそこに移った。
郵便局の近くで、裏口は父の同僚である安武先生宅の裏に通じていた。
小路を入ったところであったが、通りに出ると傍に小川があり、筋向いに床屋があった。この床屋は戦後も営業していたことをLCさんの写真で知った。
龍目井は淡水駅から河口の方に寄ったところで、油車口から来る道(中正路)と山手に向かう道(建設街)が合流するロータリーは、新店街や駅の方から来る道路とつながっていたが微妙な接続で、新店街の方から見ても烽火街の方から見ても見通しが利かず行き止まりのように見える。
公會堂の建っていた砲臺埔も龍目井から遠くない。
龍目井の宿舎も、当時淡水に土地や借家を沢山持っていた中野金太郎氏が所有していた。
この父の写真は断髪前に撮ったものだから龍目井に移転した直ぐあとと思われる。
写真には「小公園、安武さん宅前」とメモがある。安武さんは父の同僚であった。
1942年12月8日、大東亜戦争開戦一周年記念日にここで妹 恭子が生まれた。
この写真は年が明けた正月に、龍目井の宿舎で撮った恭子の宮参り記念である。
この宿舎は道路(中正路)から小路を入ったところにあった。
これは家の前の土塀を背に撮ったものである。
父のメモによると窓際に筧を掛け、縁先に四角い水槽を据えて金魚を飼っていたという。
この年の春、父が三芝に転勤したので間もなく三芝の官舎に移転した。
1943(昭和18)年の春に、父は三芝国民学校に転勤になった。
内示を受けたとき、よほど淡水を離れたくなかったのであろう。先輩教員と夜中に「○○のバカヤロウ!」と叫んだと言っていたことがあるそうだ。
三芝国民学校の前身は1910年に老梅公学校の小基隆分校として発足した。
その翌年に小基隆公学校として独立し、逆に老梅公学校がその分校となった。
当時、相当な田舎で密度も疎らであったこの地区の人口が急速に増加して学童が増えたためであろうか?(その後、10年近く後に老梅分校は公学校として独立し、いまも老梅国民小學となっている)
1941(昭和16)年に小基隆公学校は、三芝国民学校と改称された。
龍目井など、淡水街に住んでいた頃の写真は、ほかにも色々あるが、三芝(小基隆)に住んでいた頃の写真はない。
当時、写真は写真館で撮って貰うもので、普通の人がカメラを持ち、DPE店が出来るようになったのは戦後のことである。
三芝のような田舎には写真館のようなものはなく当時の面影を残すものは皆無である。
国民学校やその傍の教職員宿舎の周りは田圃で、蛙が鳴いていたり、季節には田植えした稲が判るほど、多数の蛍が乱舞していたり、それは長閑なものであった。
ここで一緒に勤めていた山城安次郎氏は沖縄で新聞かTVの仕事をしていたらしいが、淡水会(1988年:第22回於広島?)で挨拶したことがある。
私は父と、山城氏は娘さんと一緒に来ていた。
高鍬さんという人とも三芝で一緒に同僚であった。
母の話によると、タイタニックか何かの海難事件に関して、救難信号SOSの電信発信を、高鍬夫人が「エー・ソー・エー・ソー」と言っていたそうである。
近くに柑橘類の皮を砂糖で煮るミッセン工場や、パン工場もあり、時間になると良い匂いが漂ってきた。
ここで憶えているのは、母が稲刈りの勤労奉仕に出て、鎌を踏んで怪我をしたことくらいである。
3つくらいで、悪戯もしていた。
母が焼いたケーキを、近くに住む父の同僚の家に届けるように言われて、その盆を奉公人の押しているポンプの吐出口に差し出して水を掛けたものを届けたらしい。
確か、陳スイロ(漢字不詳)と言った。
届けられた家から、一つ二つ年上の女の子が、私が帰るより早く「小母さん、あのケーキ、初めから濡れていたんですか?」と駈けてきた。
これは父が赴任した頃の三芝国民学校の写真であるが、教師と父兄たちであろう。
父は1944(昭和19)年の5月に教頭になり、6月に応召で台南の部隊に入営した。
給与は三芝国民学校から支給されていたはずで、その後も三芝に住んでいた筈であるが戦時末期には淡水で、空襲警報の鳴る度に防空頭巾を被り、郵便局などの防空壕に逃げ込んでいた。
いつ頃、淡水に戻ったのか記憶にない。
年が明けたので、一昨年になるがボストンの博士と淡水を訪れたとき、三芝に連れて行って貰った。
創立百周年を記念して作られた文物館に、当時の資料が整理保存されていることに感嘆した。
そして、三芝の街が大きくなっていることにも驚いた。
父が応召している間で、戦争も押し迫って来ているなか、三芝(小基隆)から淡水に戻ってきたようである。
そして、淡水郵便局の別棟(ここで、1966年にハリウッド映画「砲艦サンパブロ」のロケーション撮影が行われたというが、その後焼失してしまった)に身を寄せた。
そこは当時、私が生まれたときに取り上げてくれた産婆さんである市川ヲコさんが管理人をしていたそうである。
2階の一番左の区画に居たような気がする。
そこで、母たちは電信隊の兵隊に賄いの奉仕をしていた。
妹は、眼鏡を掛けた電信兵を「お父さん」と思っていたらしい(父も眼鏡を掛けていた)。
1944(昭和19)年10月12日から3日間、米第3艦隊の空母から来襲した艦載機が台湾全土を空襲した。
淡水は、その初日に銃爆撃を受け、民間人が20人くらい犠牲になった。
淡水駅の傍にあったライジングサン石油のタンクが炎上し、メラメラと燃える炎を背後に、祖母と母に手を引かれて夜道を山手に向かって逃げた。
妹はその年の12月に3歳となった。
当時は庭のある家では、そこに防空壕を掘っていたし、小さな子供にも綿の入った防空頭巾を持たせていた。飛び散った破片から頭部を護るためである。
当時は、警戒警報、空襲警報、空襲警報解除、警戒警報解除、防護警報などが頻繁にサイレンで響き渡り、このような子供にもそのときとるべき行動を教え込んでいた。
郵便局の前の大きい防空壕に逃げ込んだこともあった。
小さい妹は暗くジメジメした壕に居るのが嫌で「空襲警報解除よ」と言ったりしていた。
Mさんは、淡水の我が家から台北二高女に列車通学していたが、モールス信号や手旗信号を教わっていた。
末期には「送るも征くも、今生の別れと知れど微笑みて・・」という特攻隊を送る歌を涙ながらに唱うこともあった。
空襲で民間人の犠牲が出るようになって、せめて子供達だけでも生き延びて欲しいと学童疎開の話しが持ち上がった。
1945年になるとアメリカを主体とする連合軍側はルソン島に上陸を開始した。
次は台湾だと誰もが考えた。
そして、子供達だけでも助かるものなら助けたいと淡水小学校の学童疎開が検討された。
いろいろな疎開先が検討されたに違いないが、安全なところなどあるはずがなかった。
結局、北投庄の山の上にある善光寺に行くことになった。
引率出来る教員も限られ、子供達の食事や身の回りの世話をするものが必要であった。
父も出征していたし、祖母は淡水公会堂で料理や仕出しもやっていたこともあるので、我々家族は淡水小学校の保母として同伴することになった。
上掲の写真は、2004(平成16)年8月に、当時一緒に疎開した妹と、マキ子さんと北投の善光寺に行ったときのものである。
善光寺は半地下のような作りでその屋上が展望台になっていた。
奥にはパゴダ風の慰霊碑も建っていた。
あとで聞けば、本堂も当時のまま畳敷きであるという。
堂守にお願いして入らせて貰えばよかった。
当時は境内がもっと広いように思っていた。
本堂に向かって右側に学童の食事を用意するために竹で屋根を葺いた炊烹所が作られており、本堂との間の通路を行くと奥に防空壕が掘られていた。
ここには我々よりも先に、二人の婦人が疎開していた。
母の話によると自害用の短剣も見せて貰ったという。
我々が疎開しているあいだに、2機の戦闘機が飛来したことがあった。
名残惜しそうに3回、山の周りを旋回してから前線に向かって飛んでいった。
聞いた話では、特別攻撃に出撃して、母の疎開している善光寺に今生の別れを告げて往ったと言うことであった。
学童は、食事時には本堂に行儀良く正座して給食を待ち、皆で「頂きます!」と言ってから箸を取った。
箸と言えば、炒飯などに入っている肉の小片を、自分の箸箱の上に載せておいて食べたりしていた。
給食と言っても、山寺に疎開してのものであるから、一汁三菜など出来る訳がない。
普段は、野菜や細切れの肉などを入れた炒飯的なものしか出来ない。
その小さな肉片をとっておいて食べるのである。
母たちは「そんなことしないで食べなさい」と指導することもあったが、学童は多くて面倒見切れるものではない。
好きなものを残しておいて食べるあの流儀である。
昼間は寺の庭や、その周りで遊んでいたが、夜はどうだったのであろうか?
まだ、寝小便をするのも居る年頃である。
引率の教師や保母は気を抜く間もなかったことであろう。
時には皆で遊技や、学芸会もどきのこともやっていたように思う。
憶えているのは、教師のひとりが学童に「証城寺のタヌキ囃子」を教え境内で演じたことなどである。
この野口雨情の詩に、中山晋平が曲をつけた童謡は、木更津市の證誠寺に伝わる伝説に基づいているが、戦後、進駐軍兵士の間で「Come, come everybody. How do you do and how are you ?」と英語で歌詞をつけて爆発的に流行したことがある。
半島でも「北岳山の歌」という童謡に改編されていると聞く。
しかし、ここでも空襲警報のサイレンが聞こえると本堂裏の山に掘った防空壕に避難していた。
艦載機の空襲が常態化すると、山の中まで銃撃していた。
墓地の石碑も機銃弾で欠けていた。
そして、真鍮の薬莢が沢山落ちていた。
ある日、いつものように空襲警報のサイレンが鳴り、学童を防空壕に避難させたあと、本堂の縁で艦載機が北投の街を銃撃するのを見ていた。
突如、1機が善光寺に向かって上昇してきた。
慌てて逃げたが、飛行機は速い。逃げ切れるものではない。
母と祖母は、私と妹の手を引いて本堂の横の炊烹所に駆け込んだ。
そして流しの下に私達を押し込んで、その上に覆い被さった。
その母の肩越しにグラマンが12.7ミリの機銃弾を竹葺きの屋根に撃ち込んで、それが赤く炸裂するのが見えた。
アメリカには日本の武士道や欧州の騎士道に当たるものはない。
船舶を撃沈し、ボートや筏に載って浮いている者を機銃掃射で皆殺しにした例もある。
アメリカでは今でも自衛のために拳銃を持つことが認められている。
山の樵や、寺院の修行僧も、幼気な学童も容赦はなかった。
後に学生になってから、グラマンの銃撃を受けたと言っても信じる者は居なかった。
アメリカ軍の反攻は、連戦連敗の中華民国をあてに出来ず、台湾攻略を断念し攻撃対象を琉球(沖縄)諸島に変換した。
このため、父の居た台南部隊も留守部隊を残して沖縄に投入された。
多くは輸送船が潜水艦に沈没させられ、何とかたどり着いても殆ど戦死したものと思われる。
父はマラリアに罹り、腎臓結石なども併発して野戦病院に入院していたため聯隊本部で終戦を迎えた。
写真は2004年の夏、訪れた善光寺の屋上に建っていた慰霊碑である。
私は、善光寺にいるときにひどく母に叱られたことがある。
疎開していた学童にちょっと怪我をさせる悪さをしたのである。
そのとき母は学童の逃げ込む防空壕ではなく、別の小さな防空壕に連れて入った。
そして、私のしたことがどれほどいけないことかをしっかり注意し、叱った。
5歳になっていた私は、泣いて謝り許しを請うた。
そしてそのあと「お父さん!」と叫んだと、後に母は言っていた。
また、あるとき毛虫を掴んで棘の痛さに泣いたこともある。
灯火管制の本堂の縁側で、夕方の薄暗がりに何か動く物がいたので手で掴んでしまったのである。
善光寺には庭があり、時計草の実が成っていたのも微かに覚えている。
稀に下の街から登ってくる乗用車を上から見ていて、学童連が「流線型の自動車」と言っていたこともあった。
学童の給食用の大きな冬瓜を現地の人が天秤棒で担いで登ってきたりしていた。
稀に母が下の街に連れて行ってくれたこともあった。
買い物でもあったのであろう。
当時は菓子類が無かったこともあるが、善光寺では学童を与っていたので、おやつを貰うようなことはなかった。
公園の芝生の一角、温泉が湧いているところで鶏卵をゆでてゆで卵にしていた。
その傍で、甘酸っぱいカステラのような蒸しパンを母に貰って食べた。
地熱谷も近くで見た。
町外れの小川にも温泉が流れていて、淀みの一つはちょうど湯浴みに適温であったのであろう。
浮浪者が、衣類を洗濯して木の枝に乾して、その下で湯浴みしていた。
終戦末期にもそんなのんびりした風景もあった。
合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが死亡したという報道を知ったのも善光寺にいる時であった。
見出しの写真は戦後、訪れた善光寺の入り口近くに立っていた木瓜(パパイヤ)である(右に屋上展望台の手摺りの一部が見える)。
1945(昭和20)年8月15日には、重大放送があるというので善光寺の本堂に座って聞いたが、雑音が多くよく判らなかった。
しかし、天皇陛下の「終戦の詔勅」であることは判っていたようで、皆泣いていた。
父や夫を失う者も多く、家財道具も何もかも無くしてしまったが、爆撃や銃撃から逃げ回ることはなくなった。
善光寺から淡水に帰るときには、教員がラバウル小唄の替え歌を作り、「さらば 善光寺よ、また来るまでは・・」と唱いながら下山した。
僅か3、4ヶ月のことであったが、善光寺や北投のことはよく憶えている。
上の写真は2004年に訪ねたときに撮ったものである。
北投の温泉街から急な坂道を登ったところに石段がある。
この日本式石灯籠は戦後献納されたもので、1990年という字が読める。
淡水に戻って住んでいたのは、紅毛城近くの烽火一四であったと思う。
屏東の潮州で父は終戦を迎えた。
その前夜と前々夜、部隊本部で、これからどうするか話し合いが持たれた。
将校は当てにならないので下士官だけで、兵は父一人であったという。
山の蕃地に入り、あくまで戦うというもの、戎克で中国大陸にわたって向こうで活路を求めるなどいろいろ討議されたようであるが、結局結論の出ぬまま解散となり、パインの缶詰などをリュックに一杯詰めて部隊を後にした。
内地から来ていた兵隊は復員船で帰った。
父は、重いリュックを背負って、北投の善光寺経由帰宅した。
まだ3歳になっていなかった妹は、帰宅してもそれが父とは判らなかった。
引き揚げ船に乗るまでは、その日から家族を養わなければならず、衣類の売り食いなどをしていた。
父は船会社の倉庫番や、荷車曳きもやったと記している。
国府軍の進駐行進があったが、裸足で雨のなかを唐傘をさして、金盥まで提げての行進は淡水の街で歓迎しようと集まった人達を落胆させた。
その後、家の周りでも言葉の分からない警官だか兵隊だかがうろうろして、あるとき転がったボールを取られ、父に告げると取り返してくれた。
父が仕事で外出しているときも誰何されたらしい。
三回聞いて回答がなければ撃っても良いと言うことであったらしく、拳銃を構えて「誰か」、「誰か」、「誰か」と聞くのであるが、拳銃を構えた手がブルブル震えていたと笑っていた。
何も持って帰れないので、日本人は家の前で、家具や衣類を投げ売りしていた。
売って代価を得ても意味のないことであった。
国府軍政府は、それぞれの世帯人数あたり千円、現金を持ち帰ることしか認めなかった。不動産はもとより、有価証券も預金も全て接収し、自分で持てる範囲の物を持たせて厄介払いしたのである。
しかし、我々の親の世代は「以徳報怨」という宣伝にのせられて蒋介石をある程度評価していたようである。
半島や満州からの引揚者よりはマシであったが・・・。
やっと連絡があり、台北の総督府に集結したのは1946(昭和21)年3月であった。
北投の善光寺から帰って住んでいたのは、淡水街烽火14であったと思う。
紅毛城前の坂道から近くで、家の前は少し庭があって、前に煉瓦積みの塀や生け垣があったと記憶している。
場所は上の写真で、手前の瓦葺き家屋の左あたりになるような気がする。
台湾南部の潮州で部隊解散となって、リュックにパイ缶などを詰めて北投庄の善光寺を訪ね、やっと自宅に帰ったときは夕方で、あたりは薄暗くなっていた。
家族は無事の帰還を喜んだが、妹はあれほど会いたがっていたのに父と判るまでちょっと時間が掛かったようである。
ふと思い出したのであるが、私は小さなアヒルのヒヨコを数羽飼っていて、裏庭に小川が流れていてそこで放していたように思う。烽火に住んでいた頃のことであろう。
黄色い可愛い雛であった。
そこで、衣類や家具、それに公会堂のころ、祖母が料理や仕出しをやっていたので食器類やアイスクリームサーバーのようなものも含めいろいろあったが、現地の人に貰ってもらうなどして物を減らしていった。
神棚は粗末にならないように、庭で焼却した。
沢山のアルバムから、どうしても持ち帰りたい物だけを剥がした。
数ヶ月経っても、何時引き揚げになるのか判らなかった。
手許のものを売り食いしていたが、先の見通しもなく両親は子供を連れて不安であったことであろう。
半島や大陸では現地人が手のひらを返すように態度を変えたり、略奪もあったらしいが、台湾では戦前の安心で安全な社会がそのまま続いていた。
以前と較べて、戸締まりなどは注意するようになったであろうが、人命や資産を護るために自警団が作られたなどの記憶はない。
やっと、1946(昭和21)年3月に台北に集結ということになったときも、現地の人が淡水駅で見送って呉れた。
親しくつきあっていた人の中には基隆まで名残を惜しんで見送ってくれた人も居るという。
持ち帰れるものは、各人で持てる範囲のものに限られ、通貨は家族一人あたり千円であった。
台北の総督府であった煉瓦建ての建物も廃墟のようになっていて、通路の角には国府軍の憲兵が立哨していた。
大広間に何も無かった。何処から持ってきたのか藁を敷いてそこに座っていた。
その中には、台展審査員の木下静涯画伯も居られた。
画伯が集めていたコレクションも持って帰ることは出来なかった。
両親の残したメモによると
「1946(昭和21)年3月17日 引揚命令により台湾総督府に集結
3月19日 基隆港に集結
3月21日 基隆出発
3月23日 鹿児島上陸」
とあるので、ここで2泊したことになる。
この間、母が体調を崩し、台北駅まで移動するときに、父が何処からか荷車かリヤカーを借りてきて母を載せて行った。
一緒に帰ったマキ子さんも手荷物を持って一緒に行った。
総督府から台北駅までほぼ1kmを、各自の携行品を持って歩いた。
いま思うと父も祖母もマキ子さんもよく頑張ったと思う。
台北駅では待たされて、有蓋貨車で基隆駅まで運ばれた。
通貨も貴金属も持って帰ることは許されなかったが、これらを荷物に中に隠して持ち込んだ者が見つかってひどい仕打ちを受けたなどと言うデマが流れていた。
おそらく、そういう筋から意図して流されたデマではないかと思う。
基隆に着いたら、港湾用鉄道引き込み線のレールを枕に皆、横になっていた。
貨物列車の日陰である。私はこの列車が動き出すことはないのか不安を感じていた。
基隆でも2〜3日、留められたから保税上屋のようなところにいたのであろう。
基隆は淡水に代わって台湾北部の主要港となっていた。
鉄道の駅は基隆港に隣接して設けられ、そこから臨海鉄道のレールが何本も敷設されていた。
戦前も基隆から門司経由神戸への連絡船は対岸の客船埠頭に接舷していたが、艦艇や沖縄への連絡船は鉄道の駅に隣接する臨海線近くの保税上屋近くに接舷していたのではないかと思う。
1946年にアメリカは、引き揚げなどに使用するためにリバティ船を100隻、LST100隻ほかの船舶を日本政府に貸与した。
基隆に集められた引揚者は、順次入港する引揚船に乗せられたが、リバティ船の船倉に乗せられた人が多かった。
米軍は戦時中、大陸や南方からの物資の流通を阻止する目的で20000個以上のパラシュート付き機雷を九州沿岸、南西諸島、瀬戸内海などに航空機で敷設した。
終戦になって、先ずやらなければならなかったことは、この機雷原の一部を掃海して航行可能な海面を確保することであった。
このため、旧海軍の掃海艇や掃海母艦のほか、海防艦や駆逐艦まで動員して掃海作業に従事させた。
そして必要な海面の一部が確保されると、それらの残存艦艇を改装し、外地に展開していた陸海軍将兵の復員と、外地在住邦人の引き揚げに転用した。
我々の便乗した海防艦34号は、3月21日に基隆を出航し、23日に鹿児島港に入港したが、ほぼ同時期に基隆から引き揚げた人の中には、リバティ船に乗せられて内地に入港するまで一週間くらい航行したと言う人も居た。
おそらく、機雷原を避けて、水深の深い太平洋か、大陸に沿って航行したからであろうと思う。
この図は兵装を撤去した海防艦に便乗者用区画を設けたイメージであるが、瀬戸内海のような内水面なら可能でもあろうが、春先の東シナ海を基隆から九州まで、こんな小艇で航走すると暴露甲板に固縛した搭載物も吹き飛んでしまう。
もとより艇体内部に剰余空間等はないので、武装解除で撤去された弾薬室や爆雷庫に、便乗者が横になれる程度の棚を設けた船尾区画に入れられた。
基隆の港外に出たときに、父が艙口から外を覗かせ「あれが台湾だ。よく見ておきなさい。」と言った。
外海に出ると小艇は木の葉のように翻弄された。
乗組員に聞いても、何処に入港するのか知らなかった。
ときどき、握り飯のようなものを乗組員が持ってきたが、皆 ひどい船酔いで手を出す者は居なかった。
父が、幾度となく汚物のバケツを波で洗われている甲板に棄てに行っていた。
二晩、この地獄のような状態で航行し、接岸したところは桜島が噴煙を上げている錦江湾の鹿児島桟橋であった。
桟橋で夏ミカンを立ち売りしているのがひどく高くて内地の風あたりの強さを感じたと父はメモしている。
鹿児島縣のウェブページから転載した鹿児島市街の航空写真である。
正面に桜島を望み、鹿児島港が見える。
鹿児島港と言っても、鹿児島中央駅(旧西鹿児島)から指宿枕崎線で4区間も離れた谷山港など、鹿児島港にはヨットハーバーを含め7つの港区がある。
写真のほぼ中央が本港区であるが、海防艦34号が入港したのはおそらく右端の新港区だったのであろう。
写真の右端に見える川が甲突川で、それを渡ったところが天保山町である。
天保山公園という小さな公園もある。その近くにある市立天保山中学校に引揚者は集合した。
ここで何日も留め置かれた人も居たようであるが、我々はその翌日、西鹿児島駅から鹿児島本線で博多に向かった。
列車が走行している間に詰め襟の学生のようなボランティアが「皆様、ご苦労様でございます。」と内地への帰還歓迎の挨拶をしていた。
父は「鹿児島本線の窓から山桜が見えた。私の34歳の誕生日であった。」とノートに書いている。
博多駅で、家族として一緒に暮らしていたマキ子さんは山口県熊毛郡に帰っていった。
博多駅は、その後建て替えられ位置も少し変わったが写真は当時のものである。
博多駅で筑肥線に乗り換えて本籍地の浜崎に帰った。
駅構内の土間に、ごろごろと生きているのか死んでいるのか判らない浮浪者が沢山居た。
小学生くらいな乞食が何人も居た。
待合室にいる人に食い物を貰うと、そのまま彼の親分のような者のところへ持って行っていた。
人が見かねて「これは持って行かずに、ここで食べなさい。」と言っても食べずに持って行っていた。
本籍地は佐賀県東松浦郡浜崎町である(平成の大合併で、唐津市浜玉町となった)。
写真は鏡山から唐津湾を望んだもので、手前に日本3大松原の一つ、虹の松原が見える。
左端は松浦川の向こうに唐津の市街が広がっており、その沖の小高い島は高島である。
右端の稜線は福岡との県境である。
父は、浜崎の街から自転車で虹の松原を唐津中まで通っていた。
博多駅で筑肥線に乗り換えて、福岡県最後の駅が鹿家で、佐賀県に入って最初の駅が浜崎である。
鉄路はそこから虹の松原に沿って走り、写真の正面あたりに虹の松原駅があり、次は虹の松原西端の東唐津駅であった。
今は国道が走っているが、明治・大正時代には軽便鉄道が走っていたとも聞いている。
3月下旬に父の義母が一人で暮らしていた浜崎の家に入居した。
昔の街道に面した家で、母屋と離れの間の庭には池があり鯉が棲んでいた。
その側に苔むした杉や石灯籠もあった。
海や川に近いので赤手蟹が歩いたりしていた。
母屋には庭に面した廊下があり、籐椅子が置いてあった。
そこから隣との仕切塀にそって渡り廊下があり、その手前に手水鉢があった。
母屋の屋根裏には機(はた)が2、3基あった。
雨戸の節穴から射し込む光で、障子に向いの堤ブリキ店が逆さまに写るのが面白かった。
離れは2階屋で、渡り廊下はさらに裏の厠まで続いていた。
裏庭には大きな柿の木があり、蘭のような花も植えていたが家庭菜園のようであった。
帰国したとき、夜は母屋で父と一緒の夜具で寝た。
重くひんやりとしたかい巻きで、掛け布団に袖がついていると思った。
何しろ寒いので身体が自然に動く。
父が「じっとしていなさい」と言うが、また動いてしまうので困った。
4月に浜崎小学校に入学した。
担任の宮崎操先生は父の教え子であった。
小学校への登校は1キロ程度で、川土手に桜がきれいであった。
しかし、終戦で引き揚げた内地に砂糖は無いと思っていたが、米も野菜も塩もなかった。
塩は浜から海水を汲んできて、それを煮詰めて調理に使っていた。
鉄道の軌道敷に生えている草や蕨を採りに行ったこともある。
土地の人も草を食用にしようと煮て食べたり、煎じて茶のように飲もうとして体調を崩すものが居た。
主食の米も魚も配給で、しかも量が足りなかった。
ヤミの食料品を食べないで配給食料のみ食べ続け、栄養失調で死亡した佐賀県出身の裁判官もいた。
彼は食糧管理法違反で検挙、起訴された被告人の事案を担当していた。
配給食糧以外に違法である闇米を食べなければ生きていけないのに、それを取り締まる自分が闇米を食べてはいけないと思い、1946年10月初めから闇米を拒否するようになった。
彼は配給の殆どを2人の子供に与え、自分は妻とともに殆ど汁だけの粥をすすって生活していた。親戚や知人が食糧を送ったり、食事に招待しようとしたがそれも拒否した。自ら畑を耕して芋を栽培したりして栄養状況を改善する努力もしていたが栄養失調により病となった。しかし、担当の被告100人を未決の状態にしてはならないと療養もせず、1947年8月27日に東京地裁の階段で倒れ、9月1日に最後の判決文を書いたあと佐賀県杵島郡で療養し、10月11日に33歳で死去した。
彼は被告人には同情的で、情状酌量した判決を下すことが多かったという。
このほか、東京高等学校ドイツ語教授、青森地裁判事などが食糧管理法を遵守して餓死している。
私も浜崎小学校に弁当代わりに蒸かしたサツマイモを持っていったこともある。
当時、戦災孤児も多かったが、彼らを救済するために学校給食を実施しようにも食糧難で実施出来なかった。
後に小学校の修学旅行に行ったときも、各自で毎食分の米を持参しなければならなかった。
引き揚げて、取り敢えず佐賀の伯父達がいた父の生家に身を寄せたのだが、父はいくら兄弟でも4人も連れて落ち着けなかったと記している。
衣食住すべて乏しいときで、外地に出ていた者が続々引き揚げてくるので、すべてに難儀で片身の狭い思いをしたと没後に見つけたノートに書いていた。
郷里で教員に戻れという伯父たちの言葉を振り切ってどこかに出ようと決心したのである。
居候で食うために、森林伐採の監督、玩具商の店員、そして近郊のお祭りの時は道端に座って出店もやったと書いているが、私も覚えている。
唐津神社の祭礼のときのことである。
隣に屋台を出していた香具師が盥に入れていた大山椒魚が溝に逃げ出した。
その年の暮、母の叔父が広島市役所に居て、誘われて焼け野が原の広島に出た。
私たち家族は岩国、人絹町の大叔父の家の片隅に仮住まいして父は列車で広島に通い、水道局に臨時で勤めたが、翌年1月、比治山の南麓、比治山橋近くの水道工事店に入った。
私は岩国東小学校に転校したが、肩から下げる鞄は、浜崎小学校に入るとき、母が縫ってくれていたが学期中半の転校で、教科書も無かった。
父が、クラスメートに教科書を借りてこいと言って、毎日筋肉労働のあと1時間掛けて列車で帰ってから、大学ノートに書き写してくれた。
國語も、算数も、理科も、社会も・・・。
父は現場で、ツルハシを振るいスコップで地面を掘るなど工員として働くほか、雑用も事務も、税務署の査察対応も何でもやった。
年が変わって、社長夫妻も住む事務所兼用の二階屋に家族で移転した。
私は広島市立皆実小学校に転校となった。
父はまた、全教科の教材を書き写してくれた。
担任はたしか、木下先生という女教師であった。
転校になって間もなく、学校から引率されて映画館に映画を見に行ったことがある。
映画が終わって現地解散となり、どうやって帰宅しようかと思った。
バス停2、3区間の距離であった。
まだ不法建築が建っていたり、空き地を利用して野菜や芋を植えていたところを他の学童の帰る方向について何とか帰宅できた。
事務所の裏の薄暗い区画に住んでいた。
私はやっと7歳になるころであったのであまり感じなかったが、両親は気兼ねしていたことであろうと思う。
厠のドアもなかったのである。風呂など無論ない。
母も気兼ねして掃除など雑用をやっていた。
そこで一年くらい住んでいた。
近くに、連れだって登校する友達も出来た。
広島市の中心部は原子爆弾と、その引き起こした火災で焼け野原のなっていたが、公園や陸軍墓地のあった比治山の裏には被災を免れた地区もあった。
広島駅から国道沿いに東の方向の西蟹屋町に社長の所有する古い民家があったが、放置されていたので雨が降ると家の中でも傘を差さなければならない程であった。
そこを何とか手を入れて、部分的に住めるようにして、1948(昭和23)年5月に引っ越した。
私は、またしても転校で、国道沿いの荒神小学校に通った。
まだ配給制度ではあったが、食糧事情は幾分改善されていたようで、パンの委託加工という店があった。
小麦粉を持って行くとそれに見合う分量のパンを売ってくれた。
ただし、その頃は増量のため轢いたトウモロコシなどを混ぜたものも多く、カウンタでそれを7割とかに査定していたと思う。
そこで8月に末の妹が生まれた。
しかし、父が水道工事店を辞めることになり、そこを出なくてはならなくなった。
筋肉労働はしていても謹厳実直な父と戦後、成り上がりの土建屋の親爺と合うわけがなかった。
父も途方に暮れていたと思うが、1人で大八車を曳いて水道工事の下請けをやっていた上岡氏が「うちに来い」と言ってくれた。
今は平和公園になっている中島に自力で建てた不法建築で、3畳ほどの空間と、やや広いスペースがあったが、自分たちが狭い方に入って、うちの家族を受け入れてくれた。
よくこんな写真が残っていたと思う。
うしろに見えるバラックに寄寓していた。
いまは鳩の遊ぶ平和公園になっている中島(戦前の中島本町か、その南の材木町か、その本川沿いの元柳町であった辺り)である。
中島本町は、元安橋を経て本通り商店街が続いており、戦前は中島地区が広島市内で一番賑やかな場所であった。
まわりには飴のように曲がったガラス瓶や、熱線で焼けた瓦などが沢山転がっており、誰も拾うものは居なかった。
中島の不法建築で1949年の正月を迎えたが、父が自転車でどこからか買ってきた濁酒だか、上澄みだかを落として瓶を割ってしまったことがあった。
メモを読み返してみると1948年の11月から翌年の早春までの筈であるが、写真の父は半袖、半ズボンである。よく判らない。
私は、中島小学校に転校した。
8歳のことで、しかも短期間であり顔も名前も覚えていないが、後に就職してバス通勤していたころ、おそらくその時のクラスメートであったと思う顔に逢ったことがある。相手も何だかそんな眼で見ていたような気がする。
そんな生活をしていたとき、広島市の住宅課の人が訪ねて来た。実情調査であろう。
広島に来たときから何度も何度も市営住宅への入居を申請していたのであるが、幾ら建てても追いつかなかった。
新しく建てて入居させても、どんどん他所から入ってくるのである。
当初の都市計画では戦前、陸軍の軍営地であったり練兵場であった基町地区は公園にする計画であったが、千軒以上の市営住宅で埋まった。
その後も木造の市営住宅などを解体して高層アパートを建ててしまった。
そのとき、訪ねて来たのは槇さんと言って、我が家が入居した基町の市営住宅に彼も入居した。
まだ寒い3月に基町に新築された白壁の南鯉城住宅19号に入居した。
見出しの写真は広島城天守閣の石垣から西を眺めた写真である。
手前には広島城の内堀に植えられた蓮が繁っている。
その傍に比較的新しい白壁の2軒ずつ背中合わせに建てられているのが北鯉城住宅で、少し離れたところに同じ仕様で10棟、20軒建てられたのが南鯉城住宅であった。
基町地区で最も後に建てられたものである。
北鯉城住宅の左に見えるのは戦災孤児(原爆孤児)を収容していた新生学園である。
終戦で混乱している時期、陸軍通信隊の見習士官であった人が、市内のあちこちで泣いていた赤ん坊を収容するために、旧陸軍の暁部隊の施設を借りてひらいた孤児の施設であった。
余談ながら、当時は陸軍に舟艇部隊があった。全国何処へ行っても暁部隊と言えば船舶を運用する部隊であった。
ちなみに、陸軍の船には飛行甲板を持ち、連絡や偵察に使う軽飛行機を搭載している船もあれば小型潜航艇まで運用していた。
海軍は海軍で、戦車に似た甲装戦闘車両も持っていた。
余裕のあるときは師団、聯隊規模で陸軍のチャーターした輸送船で航洋し、海軍艦艇の護衛を受けたりすることも出来たが、お互いに予備兵力まで使い果たした戦争末期には陸軍が海軍に、また海軍が陸軍に支援を要請しても何も期待出来ず、自力で切り抜けるしかなかった。
その通信隊の見習士官は、フィリピンや台湾から引き揚げた孤児も収容していた。
そして、その後基町の堀端に移転したのが新生学園である。
今は東広島に移転している。
幟町小学校の1952(昭和27)年卒業名簿には、松組1名、竹組1名、梅組3名、桜組2名と7名もの卒業生の住所欄に「新生学園」と掲載されている。
このほか、基町には「光の園」という孤児施設もあった。
「光の園摂理の家」は、医師として被爆者の治療にあたっていたペドロ・アルペ神父の働きかけで別府の光の園理事長を迎え、安佐郡祇園町の三菱労務課の建物に設けられ、基町に移転してきたものである。
現在、広電バスの車庫の辺りにあった。
ここも高層アパート建設計画で立ち退きとなり、佐伯郡地御前村(現:廿日市市)に移転となった。
なぜ、こんなに遠いところが幟町小学校の学区になっていたかはこの地図を見れば判る。
1894(明治27)年6月に山陽鉄道が広島まで開通した。
同年9月15日には日清戦争のため、大本営や帝国議会が臨時に広島に移された。
宇品地区を開拓した千田県令の名は千田町、東千田などの町名に残されている。
1889年の法律で国民皆兵が定められ、全国から動員された兵士が広島(宇品)港から大陸に送られた。
その前から広島城本丸には第5師団司令部が置かれ、二の丸には歩兵第11聯隊、野砲第5聯隊、その南の街の中心に西練兵場が、広島駅の東側には騎兵第5聯隊があり東練兵場が広がっていた。
市街地はその周辺にあったために学区割のときには、だだっ広い基町一番地に民家があり、学童が居ることは想定されて居なかったに違いない。
広島市の中心部に原爆スラムという大規模なスラム街が出来たのも、地主は居らず、倒壊した兵舎などの木材が不法建築の建材や薪として使えたからである。
旧火薬庫は石垣に取り囲まれていたが、その土塀の中は石油会社のガソリンスタンドとなっていた。
現在、土塀は取り除かれ、個人タクシーなどのガソリンスタンドとして営業している筈である。
先に述べた光の園の近くであった。
南鯉城住宅は、北鯉城住宅とともに最後に建てられたもので戦前、野砲第5聯隊と輜重兵第5聯隊とを隔てる外堀を埋め立てたところの様であった。
広島は太田川の三角州で、大雨や高潮のときはすぐに水浸しとなった。
この対策のため、市の西側に放水路が計画されたが始まった工事は戦争で中断されていた。
このため南鯉城住宅はよく浸水した。
特に一番北の我が家が一番条件が悪かった。
床下浸水には何度逢ったか憶えていない。
床上浸水になったこともある。
畳の上まで浸水すると何の対策も出来ない。
そのときは非常持ち出し品だけ持って夜、雨のなかを相生橋の傍の商工会議所ビルに一家で避難した。
野砲第5聯隊の跡の西側は、堀のあとの溝を隔てて隣接していたがそこには木造2階建てのバラック2棟からなる母子寮があり、保育園があった。
そこから幟町小学校に登校していた子も同学年も何人か居たが、当時まだ野砲の砲身がゴロゴロしていた。
屑鉄屋が持ち去るにはあまりにも重たかったし、砲身は分解も切断も出来なかった。
今でも当時の様子を思い出すことが出来る。
しかし南鯉城住宅は背中合わせの2軒長屋だったので偶数号となる裏筋は1、2軒しか憶えていない。
うちの右隣、17号は満州から引き揚げて来た玉井一郎さん一家であった。
奥さんは早月さんと言って、男、女、女の3人の子持ちであった。
先隣(15号)は川村さんと言って小さい女の子を連れた夫婦だったが、ご主人が若くしてなくなった。
その先、13号との間はコンクリートか煉瓦造りの大規模な基礎が残っており、これを避けて1軒分くらい瓦礫のままであった。
ちなみに、竣工当時の南鯉城住宅は板囲いのついた庭があり玄関の右、台所の出窓の外には槇の木、玄関の左には柊など、多少の植木も植えてあった。
それで、鶏やウサギを飼う家が多かった。
13号には浅野さん一家が住んでいたが、ご主人は生前、NKか何かの検査官をしていたらしい。浅野さんはアンゴラウサギを一匹と鶏(白色レグホン)を飼っていた。
それが放し飼いするものだから野菜を植えていた我が家の庭に入って啄むのに弱った。
浅野さんには2人の男子が居たが、兄は私より2〜3年年上で、修道高等学校を卒業して鳥取大学農学部に入学した。農学部としては由緒ある大学であった。
弟は私より1年下くらいで一時は遊び仲間であった。
11号の檜垣さんは宮島競艇の旗振り(スターター)であったが、易を副業にしている風であった。そこには小さな男の子が2人居たと思う。
9号は吉沢氏といって市の緑地課かどこかに勤めて居たらしい。
娘が2人いた。
9号と7号の間は通路になっていて、表通りの米穀配給所や銭湯とクリーニング屋の間から例の溝を石橋で渡って、同援住宅を経て10軒長屋という市営住宅の間を本丸の壕の方まで抜けられた。
このブログを見てくれている人の中には「なぜ、そんな細々したことを?」と思われる向きもあるに違いない。
この地域が、短期間(約20年?)の間に2度もリセットされ、その地図も残っていないからである。
この航空写真は、戦後木造の市営住宅を数百戸も建てていた基町を再開発するために高層ビルの建設が始まったころ撮影されたものである。
既に広島市民球場、その手前の体育館などが建設されており、太田川を寺町側に跨ぐ空鞘橋も掛かっている。
手前には「光の園」のあったところに広電(広島電気鉄道(株))のバス車庫も出来ている。
市民球場の向こうの相生通りから手前は基町一番地で、左端に再建された広島城の天守閣も見える。
広島城の東側も基町であった。
天守閣の横の堀端に新生学園や、共同住宅と呼ばれた木造2階建ての集合住宅もあった。戦前は野砲兵第5聯隊のあったところである。
戦前の航空写真と較べてみる。
新生学園や共同住宅のあったところは野砲5聯隊の兵営で、その手前に輜重兵第5大隊の建物が並んでいた。
野砲5聯隊の営庭だったところに道路が作られたことが判る。
一枚上の写真では、そこから写真中央寄りは母子寮や十軒長屋と呼ばれた市営住宅の撤去作業が進んでいる。
野砲5聯隊と輜重5大隊の境界線が戦後バス道路となったのである。
始めに掲げた写真は、天守閣から西(写真の右)を望んだものであり、幹線道路も含め白紙に線を引くように、戦前の道路と無関係に変えられたことが判る。
通常の市街地ならば、それぞれの区画に地主がおり、道路1本引き直すにも調整が必要であろうが、基町は広島城の西も東も官有の基町1番地であり、問題なかった。
市営住宅も、当初「市営住宅何号」という呼び方をしていたが、クラスメートの住んでいた551号などになると郵便配達にも支障が出たであろう。
そこで、城前住宅、同援住宅、鯉城住宅、朝日住宅、南鯉城住宅、北鯉城住宅などのほか、北区、東区、相生区、大手前、東基町などと適宜地名をつくって呼んでいた。
相生橋から写真下縁外の三篠橋までの河岸にも不法建築は残っており、市の中心部に原爆スラムと呼ばれる一帯が残っていた。
この基町再開発以前の戦後の基町を記録に残そうと、記憶を頼りに地図を描いてみたりしている。
市民球場が出来る前は、相生橋の近くに広島護国神社があり、相生通に面して大きな石の鳥居もたっていたし、その傍には児童文化会館というホールもあり、広島交響楽団が定期演奏会をやっていたことも知らない人が多くなった。
基町に移転してからの話の前に、もう少し書いておきたい。
戦後一時期だけ、ここに在った基町の様子を、何かに残しておこうと思った頃、塔文社から「昭和27年の広島と現在の広島」という市街地図が発売された。
しかし、「詳細広島市街地図」というその地図の基町地区は空白で、その縦横に2本引かれた道路も不正確なものであった。
騙されたと言って良いと思う。
描いてあるのは広島城本丸にある「広島城址」、「大本営跡」、「市民球場(?)」とその北の「基町高校」、「白島小学校」、「光の園」、それに派出所のマークと郵便局のマークのみであった。
基町の周辺部と言っても良い東部と相生通りの傍には、のちに移転した護国神社や裁判所、拘置所などの文字が見えるのみである。
これで出版物を捜すのを止めて、少しずつ思い出しながら自分でスケッチし始めた。
未だ建具も来ていない吹きさらしで、祖母が下の妹を負ぶっていた記憶があるから、熊毛郡の親戚に身を寄せていたのを呼び寄せたのであろう。
私は幟町小学校の3年生になった。
3年竹組の担任は渡辺菊子先生というちょっと怖い先生であった。
先生は小学校の近くの建設省太田川工事事務所の官舎に住んでいた。
この辺りで年次と記憶のずれがある。
竹組に編入になったのは4年生だと思っていたが、持ち上がりで4年になったのであろう。
当時、幟町小学校は流川教会の近くの校地に木造のバラック建てであった。
その頃、もう少し北の広島女学院(中高部)寄りの新しい校地に木造2階建ての校舎を建築中で、学童が自分の机を持って運んだ。
この年、あまり強くないのに身体に無理を重ねて父は肺結核となった。
母は、何かに縋りたかったのであろう。近くにあった天理教の布教所を経て、皆実町の白光分教会の信者となった。
もともと、祖母の嫁いだ原田家は神官であったらしいが、天理教の湖恩分教会を勤めて居たらしく、淡水在住のころは無沙汰していたが、浜崎で守浜分教会(当時は布教所?)を訪ねたこともある。
恭子は基町に引っ越して、ここで幟町小学校に入学した。
学校から比治山に花見に行って母と撮った写真がある。
この頃、上下水道の事業者や配管工の制度が整備されつつあり、父は広島市の第1回試験で配管工に合格した。
国家資格として配管工が技能検定の対象になった10年以上後のことである。
のちに給水工事主任技術者の認定を受けた際、広島市が配管工資格の返納を求めたことがあった。
ともあれ、1949(昭和24)年は、引き揚げて以来久しぶりに正規の住居を得た年であった。
この頃、小学校では1組、2組・・という組名を付けず、各校毎に組の名前を付けていた。幟町小学校では、松組、竹組、梅組と名付けていたが、戦後のベビーブームで学童数が増え、私の学級では櫻組までの4組があった。
それからも学童数は増え続けた。
校歌の歌詞も「一千余人もろともに・・・」と言う部分が「二千余人もろともに・・・」と改訂され、その後、藤、桐など、まるで花札のような組名が追加された。
4年竹組に田口秀樹というクラスメートが居た。
市営住宅の551号であったが、彼の父は絵描きのようで広くない住居をアトリエにしてイーゼルを立てていた。
当時の住所録を見ると基町北区551となっていたが、組替えで同じ組になった森武夫は第五基町461となっている。同じ列びの市営住宅であった。
無論、不法建築に住む学童も居た。これも住所録には基町相生区1などとなっていた。いい加減なものであった。
竹組で同じ組であったのは上記の田口のほか、笠間卓治、滝川雄壮、金子秀生、田中収、児玉信之、山本泰子、板谷冨美子、魚浜洋子などの名前を憶えている。
このうち滝川雄壮は後年、気象庁長官になった。
上掲の写真は入居した広島市営南鯉城住宅19号の玄関で妹と撮った写真である。
二人とも、足には下駄を履いている。
私が3、4年生で、妹はここで幟町小学校に入学した。
玄関脇には柊が植えてあったが、いま植えたばかりのような若木であった。
1950(昭和25)年4月、5年生になるときに組替えがあり、このときは転校生の挨拶をしなくて済んだ。
担任は小川武男という若いスポーツマンであった。
校庭が狭いのでグラウンドに対角線に百メートルコースを作って短距離の練習をしていた。
男27名、女34名であったが、男女比は4組とも似たようなものであった。
クラスメートは大体憶えている(男子は全員、女子は9割程度)。
広島は城下町であり、幟町のほか鉄砲町、蟹屋町、台屋町などの町名があったが男子6名、女子6名と基町勢が多かった。
クラスメートの寺本弘太は、修道中学校にも一緒に入学して同じ1組になったので長いつきあいになった。薬問屋の一人息子であった。
このほか、校長の息子や商店主の子弟や、双子の兄弟などが居たが、京橋川を渡って広島駅近くの大須賀町から通ってくる学友が居た。
彼は小児麻痺の後遺症で手足が少し不自由であった。
彼の通学路に架かる栄橋には三篠橋や相生橋と同様に爆撃で路面に穴が開いていた。
無論、防護用に柵は設けられていたが、彼は1人でこの橋を渡るのを怖がった。
それで毎日、栄橋を渡るまで彼をエスコートし、それから来た道を家路についた。
彼とは休憩時間もよく話した。当時未だTVはなかったが、ラジオの番組の話しなどをすると楽しそうによく話した。
彼の父か祖父は海軍軍人だったらしく旧海軍のアルバムを学校に持ってきて見せてくれたことがある。
彼の母親は、友達として付き合っていることを大層感謝していたようであったが、家には呼ばないように言っていたという。
彼の家のあったところは、ほかの地方都市と同じく駅の周辺であまり風紀のよい処とは言えなかったからである。
ここに掲げた写真は、卒業アルバムのために撮ったものであるが、男子27名のうち、彼を除く26名が写っている。
今でもこの写真を見ると往時のことが思い出される。
クラスメートの住んでいる地域は、東は広島駅周辺から、西は基町の太田河畔まで、北は白島から南は当時百メートル道路と呼ばれていた平和大通りの向こうまで、旧市街と言って良い程広がっていた。
この写真は、明田弘司著「昭和20年代→30年代:128枚の広島」(南々堂:2009年刊)から転載した「空から見た縮景園と白島通り」である。
1956(昭和31)年に撮影されたものであるが、中央左よりの2区画の校地は広島女学院の中学校と高校であり、その左上に幟町小学校の校舎とグランドが見える。
その西南角にはNHKの広島放送局があった。
NHKが後年平和大通りに移転したあとはデパートの商品倉庫として使われていた。
右上には基町の市営住宅が見える。
この写真は上掲書に掲載されていた繁華街、八丁堀から西北を望んだものである(1952年、福屋百貨店屋上から)。
福屋デパートの上層部は貸事務所になっていたが1階、2階から順次売り場を広げていた。
幹線道路の相生通りにはまだ民家が居座っている。
路面電車の軌道を順次北寄りに移設している最中である。
中央に見えるバス乗り場は、郊外線バスの乗り場であった。
その向こうの広場は広島県庁の庁舎建設予定地である。
広島市民病院が出来て間もない頃である。
この頃未だ、写真の手前枠外には八丁堀という地名の由来である外堀の隅櫓の石垣が残っていた。
今は商用ビルの建ち並ぶ市街地になって当時の面影を偲ぶ縁も残っていない。
幟町小学校6年松組は、5年からそのまま持ち上がりの組であったが、男子27名に対し、女子は34名と多かった。
女子は国会議員の娘や当時、東洋工業と言っていたマツダの副社長の娘などが居た。
担任の小川先生はマツダの技術役員が取り寄せてくれたポピュラー・サイエンスという雑誌を見せてくれた。
女子の中で成績の良かったのはCHと言った。
算数も、國語も、理科も社会科も良くできた。
私は幟町小学校に落ち着くまで転校を繰り返していたが、当時小学校教育のカリキュラムが固まっておらず、カタカナから始める処もあれば、ひらかなを最初に教えるところもあった。
算数も、乗除算を習っているときに転校となり加減算に逆戻りしたこともある。
幟町に転校して5年生になるときに組替えがあり、やっと落ち着いたのである。
大体において授業内容を理解していたが、互角のレベルであったのはCHであった。
中学、高校と進学して先端を行くと思っていたが、ずっと後になって家庭環境からか心の病になり亡くなったと聞いた。
卒業後40年以上も経って、東京と広島でクラス会に参加したことがある。
いまでもやっているのであろうか?
小学校の修学旅行は別府であった。
国鉄の広島駅も横川駅もその頃、己斐駅と呼んでいた西広島駅も後年建て替えられたが、当時は広島駅にも学童が集まる適当な場所がなく、高架線になる前の横川駅から普通列車に乗った写真が残っている。
客車を増結したのかもしれない。
確か、見送りに来た母にチューブに入ったソフトチョコレートを買って貰ったと思う。
乗り換えの覚えがないので、そのまま日豊本線の別府駅まで行ったのであろう。
写真は、地獄めぐりの海地獄で撮った記念写真である。
ケーブルカーで楽天地に上がって温泉プールで泳いだ。
ちょうど、その日は雨であった。
別府港を見下ろす海岸沿いの児玉旅館に一泊して、帰りも列車に座って帰った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
修学旅行の前であったが、小学校から己斐の茶臼山までの遠足があった。
片道4キロメートル以上ある。
山登りだから往きももバラバラで、帰りは学校まで戻らず帰宅した学童も居た。
今なら問題になっていると思う。
毎日、片道1キロを通学していたので、下校時にその倍くらい寄り道したり、帰宅後その程度の範囲なら、まだ部分的に瓦礫の残っている市内を歩き回っていた。
小学校で算盤も習った。
まだ貧困家庭も多かったので、学校で使う教材も「買わなくてはいけないことはない」と教師たちも気を使っていた。
それでも、広島の街はやっと復興の兆しの見え始めた頃であった。
龍目井で生まれた妹、恭子は基町に入居した1949(昭和24)年に幟町小学校に入学した。
この写真は4年生のときにクラスメートと校庭で撮ったものである。
世の中は、少しずつ落ち着いてきてはいたが、依然として主食の米は米穀通帳がなければ買えない配給制度が続いていた。
我が家も終戦以来、身体に無理を重ねて働いていた父が肺結核になった。
当時、ストレプトマイシンやパスなどの抗生物質が実用化されてはいたが、未だ若い人が結核に罹り、亡くなっていた時期である。
市営住宅で隣に住み、助け合って生きてきた奥さんも幼い3人の子供を残して結核で亡くなっている。
そのころ、結核になるとせめて滋養のあるものを食べさせて・・という状況であった。
父が倒れると、子供達を食べさせるために母も働いた。
洋裁や内職をやったりしていたが、淡水時代の縁で広島タクシーの車庫に働きに行っていた時期がある。
当時のタクシーは木炭自動車であった。
自動車に木炭を焚く窯を搭載し、細かく砕いた木炭を燃やして得たガスでエンジンを駆動するのである。
ガソリンに較べて力は出なかったがなんとか動いた。
しかし、始動時には窯に火をつけてからエンジンが掛かるまで時間を要した。
母は粉塵のなかでマスクで顔を覆って炭割をしてくれたのである。
最近、レトロブームで国内に幾つか木炭自動車があるという。
この近くでは西岩国で走っている動画を見たこともある。
ビュイックの木炭自動車もあったそうであるが、木炭のパトカーで逃走車を追跡できるのか疑問を感じる。
そんな中で、父は1949(昭和24)年、広島市の実施した第1回配管工試験に1級合格した。
父は前年辞めた水道工事店に呼び戻されて復職していた。
そんな中で、当時名門と言われていた広島大学付属中学校と私立の修道中学校を受験した。
修道中学の試験問題集を買ってくれたのを憶えている。
そのほか、教科書以外で買って貰ったものに少年朝日年鑑があった。
いま、古書を検索してみると昭和26(1951)年版が何冊かある様である。
広大の附属には小学校もあり、中学になるときは1クラス程度の人員しか採用しない。
中学の入試では入学定員の倍程度を筆記試験で選び、その中から抽選で入学者を決めていた。
この抽選に外れたとき母は大層残念がっていたという。
当初、基町の市営住宅から原爆スラムと呼ばれる不法建築群を抜け、相生橋から路面電車で御幸橋まで通学していたが、しばらくして中古の自転車を買って貰って、近くにあった母子寮の寮長の一人息子と、本通りの衣料品店の息子と3人で自転車通学を始めた。
修道中学校入学記念写真である。
こうしてみると当時の制服は、いわゆる学生服であれば良かったようで、黒も紺もグレーも居る。
襟も詰め襟、折り襟があり、制帽も学習院型もあれば慶応帽に近いのもいる。
1組には幟町小学校から進学した寺西、中村、田中らが居たが田中は高校卒業のときには一年次違っていた。病気か何かで休学したのかもしれない。
木造の講堂の前で撮影した。
中学1年1組の担任は、清水範一先生という國語の教師であった。
音楽が趣味で、昼の休憩時間には新入生に黒人霊歌などを唱わせ、自分は上手くないクラリネットを吹いたりしていた。
当時、映画化もされた竹山道雄の「ビルマの竪琴」を読んで聞かせたりもしてくれた。
新入生はおよそ360名で、6組に分かれていた。
中間試験や期末試験の席次が廊下に張り出されていたが、1年のときは40番前後だった。
そのまま行けば東大、京大に合格しそうな成績であったが「こんなものか」と気が緩んだのであろう。その後少し下がった。
当時、中高部は本館のみ木造2階建てで、別棟に科学教室や敬道館という建屋があった。
本館の正面右手には藩校時代の学問所から、私立修道学校を設立したときの山田十竹(養吉)先生の胸像があった。
この写真はPTA役員の写真であるが、前列右から3人目が校長の山尾政治先生である。剣道の有段者であった。
その脇に大きなシャコ貝が置いてあったが、謂われは知らない。
本館の階下は教員室などがあり、2階に中学1年生の教室が並んでいた。
その裏には、長い2棟の木造(バラック)校舎が並んでいた。
本館の裏は温室や花壇があり、生物(植物)クラブの生徒が手入れをしていた。
入学した春には二葉山の東照宮などに遠足があった。
フェリーに乗って松山にも行った。
松山城や子規庵、道後温泉、石手寺などを巡った。
往きのフェリーは呉に寄港して三津浜に着いたと思うが、四国に行ったのはこのときが初めてで、海上でフリゲート艦を見たのも初めてであった。
一年生の頃、組で木を削って船を作り、校内の水路で走らせることを競い合っていた。
私は3本マストの帆船を作ったりしていたが、漁港のある坂町から呉線で通っていた柚木は船体を削るのが上手かった。他のものは木片の両端を削ったようなものであったが彼はフレアもシアもついた「船体形状」を形作っていた。
船を作ることに漠然とした興味を持ち始めたのはこの頃かも知れない。
夏には倉橋島の海越で臨海学校があった。
夏休みの分教場を借りて教室の床の間で寝起きした。
まだ、母親に頼まれて夜中に小便に起こされるものも居た。
朝食前に島の頂きに登ったり、夜は浜に寄せる夜光虫を手に取ってみた。
臨海学校だから水泳の教練が主体であった。
泳げない者は漁船で背の届かないところから浜に向かって泳がされた。
途中で教師が立ち泳ぎしているので、ホッとして足をつこうとする者も居た。
その後も臨海学校は継続して行われていたようであるが1992(平成4)年、サメ騒動をきっかけに中止となった。
修道の体育の時間は、雨が降ってなければサッカー、降っていれば柔道であった。
雨の日に、他人が着て汗をかいた柔道着は湿っていた。しかし、このおかげで受け身などは身についた。何時か本館の二階で廊下から地上に下げてあった非常用ロープで遊んでいた一年生が落ちたことがあったが、無意識に腕で受け身をしていたためか大した怪我もなかったと聞いた。高校になるころには「日本講道館初段(黒帯)」となった。昇段試験があるわけではない。市内で接骨院を兼ねた道場を持っている師範が練習を見ていて認定してくれるのである。
国体では、サッカー、水泳、バスケットが強く、野球は弱かった。私は体育系部活はやっていなかったが、同級生に一人、私を見つけると相撲をしようと挑んでくるのが居た。
休憩時間は相撲を取ることが多かった。学生服のズボンのベルト通しはみな切れていた。
体育と言えば「人絹一周!」を記しておくべきであろう。
忘れ物をしたとか、何らかの理由でよく土手を走らされた。
修道の中高部は南千田町にある。東は京橋川、西は元安川に囲まれ、傍に筏で運ばれてきた木材を浮かせている貯木場があり、南端には戦前、帝国人絹の工場があったらしい。
戦後は回収した破損ガラスなどを原料にした広島硝子工場があった。
運動場から正門を出て、土手に上り、それを一周するのである。ひどいときには「二周!」と言われることもあった。走ることがあまり得意でないのでこれは嫌であった。
いま、その一帯は下水処理場や広島市水道局の管理部などがある。
授業はどれも面白かった。
バラック校舎の掲示板には英語の教師が中学生向けの英字新聞を貼り解説したりしていた。
スエズ運河を巡ってエジプトとイギリスが軍事衝突していた記事は憶えている。
授業の開始と終了時刻にはサイレンがなったが、停電のときは用務員がチャラン、チャランと鉦を振って知らせていた。
音楽教室は敬道館という建屋の二階で、蓄音機も置いてあったが授業で聴くことはなかった。
中学のときの同級生にTと言うのがいた。
ターゲットを見つけると陰湿な悪戯や虐めをやっていた。
一度、下校時に往来で彼と取っ組み合いの喧嘩をした。
随分やっていたのだと思う。誰かが学校に告げに言ったのであろう。
数学担当の山崎教諭が来た。そして一言「今日は、黙って帰れ」と行った。
後にも先にも組んずほぐれつの喧嘩をしたのはこの時だけである。
高校になって別の組になって忘れていたが、結婚してから夜訪ねて来たことがある。
勘当されて、知人を訪ね歩いて生活しているようであった。
よく、訪ねて来たものだと思ったが飯を食わせて一泊させてやった。
帰り際に「幾らか恵んで欲しい」ようなことを言っていたと思う。
親はかなりの地位の公務員であった。
修道中学校の卒業式は講堂で行われた。
教頭が神官であった。
「越天楽」が流れると、誰かが「黒田節!」と言うのを聞いて傍にいるものが笑い、壇上から睨まれた。
些細なことが面白い年頃であった。
修道高等学校には修学旅行がなかった。
その代わりが修道中学校の修学旅行であった。
別府、九重、阿蘇、熊本、雲仙、長崎の北九州めぐりであったと思う。
生徒数が多いので、宿舎その他が対応出来なかったのであろう。
2班に分けて逆回りで行ったと記憶している。
当時、広島から別府に行くには宇品から定期船が出ていたが、鉄道列車の貸し切りであったと思う。船に乗ったのであれば憶えているはずである。
小学校の修学旅行も別府であったが、船では引率の眼が届きにくいので列車になっていたのだと思う。
九重(久住)にも行った筈であるが写真が残っていない。
阿蘇の宿舎は、夏目漱石が泊まって「二百十日」を書いた山王閣で、雲仙の宿舎は、佐田啓治、岸恵子が、映画『君の名は』をロケしたときに宿泊していた「東洋館」であった。ここも写真がない。
山王閣の庭で、外輪山をバックに撮った写真で、フィルムサイズ2センチ角ほどのプラスティック製玩具カメラである。
阿蘇、中岳の噴火口では長田と中村と撮った。
熊本城に行ったあと、三角から島原に向かう船上で撮った写真である。
右に写っているのは江田島から来た級友、津島英哉である。
なかなかの秀才であった。
彼は日本IBMの製造装置工業のシステムエンジニアをやっていたが、船舶推進器の動的応答に関する論文などを執筆している。
長野オリンピックのときは同委員会に出向していた。
2010年の那須ベテランテニス大会で優勝したスポーツマンでもある。
こちらは廿日市から通っていた級友、永井勝彦である。
「根は優しくて力持ち」という感じで、電停から登校する道すがら、当時は所持許可など要らなかった空気銃の話しや当時まだ珍しかったプラスチック模型の話しなどをしていたことが思い出される。
島原の船着き場で撮ったものであるが、彼の名は思い出せない。
編入生であったと思うが、修学旅行で小さなプラスティックカメラを持ってきていたのは彼である。
熊本城にも雲仙にも長崎にも行った筈であるが定かに憶えていない。
なにしろ半世紀以上前のことである。
高校になると中学時代に袖口に付けていた白線はなくなったが、襟章は持ち上がりであった。
白線は、袖口から10センチの処に1センチ幅の白テープを縫い付けてあった。
戦時中、空襲で避難するときに他校の生徒と識別するために付けられたと後で聞いた。
当時の中学は5年制であった。戦後学制が改められたとき、新制の高等学校に白線は付けなかった。
襟章は入学年度によって緑、黄、赤、白、金茶、青のうちの「修道」バッジが指定され、順調に進学すれば6年間変わらなかった。
卒業した年に入学した後輩がその色を引き継ぐのである。
従って、「Ⅰ」とか「Ⅱ」とか言う学年章は付けなかった。
いわゆる進学校であったので、中学2年までに中学のカリキュラムは修了し、中学3年からは数学や化学は高校の教科書を用いていた。
高等学校から編入した生徒は大変であったと思う。ただ一組増えるだけなので倍率が高く、その難関を通過した編入生はよく頑張って落伍するものは居なかった。
高等学校に上がるときに、音楽/絵画/書道を選択する者によって組編成が行われた。
音楽を選択したものは1クラスだけで、1組となった。そのほかは絵画か書道である。
3年生になるときに特別組(6組)が編成された。
東大、京大などを受験する組である。
当時、まだ蹴球はインターハイや国体で広大附属と2強が上位を占めていた。
その6組で、サッカー部のレギュラーとして活躍していたのもいた。
サッカーと言えば、当時国泰寺高校のグラウンドはサッカー競技場のように3方に芝生の観覧席があった。ここで行われる決勝戦は毎年のように付属と修道であった。
世間では進学校と言われていたが、ガリ勉などとは程遠く高校時代は楽しく過ごしていた。
弁当は1校時のあと食ってしまい、昼には自転車で近くのうどん屋に行った。
当時、TVの放送が始まったばかりで、朝のニュースのあと放送はなく、昼のニュースのあと料理番組が終わると夕方まで放送を休止していた。
その料理番組を見て学校に帰るのである。
たまに吉島の飛行場の辺りまで行き、授業が始まっていた教室に戻ったこともあった。
高等学校になっても貸し切りバスを連ねて備後の仏通寺などに行った。
修学旅行の代わりにはならないが、我々の年は岡山の後楽園、鷲羽山に行き下津井に一泊して帰った。
現在、鷲羽山には観覧車やホテルがあり、壮大な瀬戸大橋が展望できるがその当時は松の生えているだけの岩山であった。
見出しの写真は、後楽園で撮ったもので、懐かしい顔々が見える。
写っている先生は、後に校長を務められた楢崎先生(化学担当)である。
私が中学生か高校生の頃、山口県熊毛郡から山本マキ子さんが家に来た。
広島の的場町にある繊維関係の会社の一つに就職して、家から通うことになったのである。
淡水の頃のように家族で暮らすことになった。
マキ子さんは母のことを、姉さんと言い父のことを先生と呼んでいた。
今でも元気にしていることは有難いことである。
修道高等学校のイベントの一つは秋期運動会恒例の3年生による仮装行列であった。
それぞれ組毎に出し物を相談し、準備するのであるが、この年の一組は何でもありの成り行き任せであった。
ボール紙で作った兜をを被っている者、弁慶など僧兵に扮した者、鞍馬天狗のような頭巾を着けた者、丹下左膳、虚無僧、若衆などが居るかと思えば、日露戦争の陸軍兵士、大東亜戦争当時の将兵、果ては自衛隊の制服を借りて着用している者もいた。
中には真知子巻きのような気持ちの悪い女装や、いわゆるこも被りまで居た。
上の写真の右隅から自分の影像を切り出したものである。
旧海軍士官の詰め襟は父が知人から借りてくれた。
制帽は広島市水道局の守衛から借りたものである。
双眼鏡は家にあったもので、手袋は綿の軍手、勲章のようなものはどこかの従軍徽章かなにかである。
この写真では判らないが、腰には短剣も吊っている。
この格好で、家族席に弁当を取りに行ったら「兵学校の生徒が来ている。」という声が聞こえた。
江田島は修道のある南千田の鼻先であり、その十数年まえまでは海軍兵学校の生徒が広島の街も歩いていたものである。
プラカードは父が書いてくれたものである。
右の旧陸軍の仮装をしているのは一緒に浪人して広島大学に入学したHMである。
左の自衛隊の制服を着ているのはKである。
東京の私学に行ったと思うが、今頃どうしているのであろう。
当時、国立大学は個別に入試を行っていたが、受験生に2度の受験機会を与えるということで、試験期日を2度に分けていた。
広島大学は1期校、岡山、山口、愛媛、香川の各大学は2期校で、四国では徳島大が1期であったように憶えている。
当然、自宅から通学できる広島大学の工学部を志願し、2期校として愛媛大学に新たに設けられた電子工学科に申し込んだ。
合格発表の日に工学部に見に行ったが私の受験番号は載っていなかった。
3年生になると1、2年の頃ほど勉強に身が入らなくなったのである。
このときは5、6名で受けたが総倒れであった。
それで愛媛大学も私学も受験することなく浪人生活を決めた。
当時、広島には英数学館とYMCAの予備校があったが悩んだ末、YMCAに決めた。
ここで広島者のほか、山口県や鹿児島県から来た友人が出来た。
特に上関の対岸、室津から来たMMに誘われて、音楽喫茶に行くようになりクラシック音楽を好むようになった。
HMとは尾長のやまで小型ロケットの打ち上げ実験をやった。
東大生産技研の糸川英夫氏がペンシルロケットの実験をしていた頃である。
燃焼に用いる硫黄や亜鉛粉末は、高校指定の教材屋が何も聞かずに売ってくれた。
精密な観測機材はなかったが、終いには結構飛ぶようになった。
浪人時代も楽しい思い出が多い。
1959(昭和34)年3月9日に合格者発表に行き、船舶工学科の受験番号45番を確認した。
父は、よほど嬉しかったらしく「我が家のメモ」に現役で受験したときから合格するまでを数ページにわたって書いている。
父が合格者発表を見に行ってくれ、嬉しくて泣きながらバイクで帰ってきたという。
その夜、ビールを何本でも買ってこいと大いに祝杯を挙げた。
それから数日、祝杯祝杯でとうとう急性肝炎になった。
入院した広島市民病院の広本医師が良い目にあったのだからこれくらいは良いでしょうと笑ったという。父は笑われても嬉しかったとメモを締めくくっている。
唐津から広島大学に受験に来た従兄の雄二は応用化学を同じ受験番号45番で受験したが、上記HMとともに応用化学科に合格し、入学した。
彼らは、よく家に遊びに来て、食事のあと祖母を交えて麻雀や花札などをして帰った。
この年の10月に、父は復職していた水道工事店の専務取締役になった。
まだまだ裕福というには程遠かったが、やっと少し明るさが見えてきた頃であった。
1959(昭和35)年12月9日、祖母 原田ユクが亡くなった。
私が広島大学に入学した翌年であった。
祖母の67年の生涯は波瀾万丈の人生であった。
若くして夫に先立たれ、小さな女の子を連れて淡水の伯母を頼って渡台し、遮二無二働いた。
そして淡水街の嘱託として公会堂の管理を任され、宴会や仕出しを営んでいた。
公会堂の小母さんと呼ばれて内地人からも現地人からも慕われていたという。
そして、私のことを赤ん坊の頃からかわいがって何処にでも連れて行ってくれた。
それが戦争で一変してしまった。
戦時中は爆撃や銃撃に遭い、我が家は敗戦になって無一文となり、引き揚げてからも基町の市営住宅に入居するまでは山口県熊毛郡の親戚に身を寄せるなど肩身の狭い暮らしを忍ばざるを得ない時期もあった。
戦後の、そういう環境のせいもあってのことであろうが、晩年は喘息に罹っていた。
それでも、何とか広島での生活にも見通しがたつようになっていた。
祖母は晩年、「私の一生を書いたらそれは面白いものになる。」と笑って話していたことがある。
祖母と岩田や櫛ヶ浜、下松などに行ったこともある。
淡水で家族として一緒に住んでいたマキ子さんは下松の福田さんと結婚して息子、娘も授かっていたので下松にも行っていた。
福田さんも立派な人物であった。
私も大変お世話になった。
私は子供の頃からお婆ちゃんの肩を叩いたり揉んだりしていた。
また、それを喜んでくれた。
亡くなったのはその年の師走であった。
私は入学して2年目であったが、妹の恭子は基町高校の卒業を控えて、三菱銀行に入行が決まっていたのを喜んでいた。
私のことは船舶工学科に入ったのだからと何も心配はしていなかった。
大学に入ると、桐の下駄や朴歯の下駄を買ってくれた。
明治、大正期の学生のように、破れた帽子を被り、学生服の腰にタオルを下げた書生のような格好を見て喜んでいたように思う。
それで走ったり、跳んだりするものだから下駄は鼻緒が切れたり、割れたりした。
祖母は、母が女学生の頃から琵琶を習わせていた。
吟詠も好きだったのであろう。
広島市営の高天原墓園の一区画に「原田家の墓」として墓碑を建てたが、後年 母が詩吟の段位を取ってから墓地で祖母に聞かせようと漢詩を吟じたことを思い出すことがある。
そして翌年、恭子は基町高校を卒業し、三菱銀行広島支店に勤務した。