私は在職40年あまりの間に、職業として4つを経験してきた。
最終学歴が船舶工学科だったこともあって最初は造船技師として7年程度勤めた。
それから、構造強度の研究技術者として約12年を過ごした。
その後、ほぼ13年をシステムエンジニアとして勤務した。
その間、2年近くを電子制御研修所の専任講師として単身赴任した。
それから地方の私学に移籍して助教授、教授をちょうど10年間過ごして退職した。
その中で、造船技師(Naval Architecture)をやっていた期間は最も短いのに自分では造船技師の端くれであると思っており、日本造船学会の後身である日本船舶海洋工業会の終身会員になっている。
随分以前のことであり、はっきり憶えてはいないが、航空機や船舶の分野に進もうと思ったのは、淡水で内地から飛来する飛行艇をみた記憶が影響しているかもしれない。
高校を卒業する頃は終戦後のことであり、航空機の運航や製造などで仕事が出来る環境ではなかった。
それでも、航空機産業か造船あるいは海運に進学したいと思うようになった。
卒業する頃には航空工学科を復活させる大学も現れていたが、高校3年になって、それまで視力検査表の一番下まで見えていた視力が0.5〜0.6程度になった。
当時、操縦要員や航海士は裸眼で視力1.0は必要であったので、船舶工学科に進学することにしたと思う。
造船設計部時代は新造船の構造基本設計も担当したが、造船協会(日本造船学会)の構造委員会に出席したことや、徹夜でスケッチを行って入渠船の改造を船級協会に認めて貰うために飛行機で出張したことが思い起こされる。
設計部から研究所に移籍した直後には11万トンの新造船で波浪外力と応答計測の実船試験で日本からアフリカ大西洋岸まで往復乗船した。
システムエンジニアとして仕事では世界初の全没式浚渫ロボットの遠隔運転システムの開発が一番印象に残っている。
大学教員の頃指導していた情報科学ゼミの卒業生が、システムエンジニアとして活躍していることを企業訪問のときに人事担当者から聞くことが嬉しかった。