淡水街は以前滬尾と呼ばれており、いま馬偕博士の頭像のある龍目井のあたりから紅毛城近辺の烽火街にかけての河岸地域、それに沿った高台の砲臺埔あたりに大多数の人が住んでいた。
紅毛城はスペイン人が築いた要塞であったが、スペインが撤退したあとはオランダ人が17世紀に再建したという。
1867年以降、イギリス政府が租借し、英国領事館を建てた。
その少し前、北京条約により淡水、基隆、安平、打狗(高雄)が開港されたが、台北に近いこともあって淡水港の取扱量が圧倒的に多かった。
清朝は税関業務をイギリスに委ね、その税務官の官邸が建てられた。
これが、現在古蹟になっている小白宮である。
当初、北台湾の主要輸出農産品は米で、福建から日用品や雑貨を積んできた船が米を積み出していた。
開港後は、茶、樟脳、石炭、米が輸出されるようになり、太古洋行(ダグラス海運)などが土地を借りて居住し、倉庫を建てたりしていたが、馬偕博士が厦門から帆船「金陵号」で滬尾に上陸したのもこの頃である。
このようにして医院、礼拝堂、外人墓地なども造られた。
馬偕博士は「淡水は繁華な街で、ほかの街と同じように、市内には市場があり、漁師、農民、庭木売りや花売り、物売りが大声で品物を売っている。米穀店、阿片窟、廟、薬品店などが軒を連ね、店の旦那たちが通行人を呼び込んでいる。木工店、鉄工場、理髪店、車夫などが街道の往来を行き来し、街には黒煙がもうもうと立ちこめていて、相当汚い。医院の近くに礼拝堂と宣教師の宿舎があり、近くには汽船会社の小さな事務所が幾つかある」と述べている。
台湾総督府が台鐵淡水線を敷設したときに設置した淡水駅は、現在のMRT車站と殆ど同じ場所であったが、当時は淡水の街外れであった。
1920年に福佑宮の前に公設市場が開設され、商業地区は新店一帯に移り始めた。この地区の商店は種類が多く、台湾人と日本人の店が混在していた。郡役所、税関など官公庁舎は主に烽火街に置かれ、商店街と官公庁の棲み分けが実現した。
以前からこの地区は滬尾と呼ばれていたが、滬尾公学校、滬尾警察署なども順次、淡水公学校などと改称された。