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淡水河口港湾整備計画

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1858年に清国と英仏露米間で結ばれた天津条約は清国で批准されなかったために、同条約で取り決められていた開港は実施されなかった。

しかし、いわゆる「アロー号事件」などの経緯により締結された北京条約で開港された結果、淡水は1895年から1905年の10年間で、台湾全島の貿易額の6割を越える主要貿易港となった。
淡水以外の台湾各港では安平(20%)、高雄(4%)、基隆(1%)しかなく(1895年)淡水の独占状態であった。

当時出入りしていた船は、戎克(ジャンク)のように喫水の浅い船で、そのまま淡水河を遡り台北のや大稲に荷揚げすることも出来たので淡水河の航行は非常に賑わっていたという。

日本統治が始まると、日本郵船や大阪商船も淡水と福州や香港を結ぶ定期航路を開設したが、当時、外航船がどんどん大きくなっていた時期で接岸出来ない船もあった。
接岸できないときは沖泊まりして、で荷役をするのであるが淡水河には堆積した砂で大きな中洲があり、泊地も限られていた。

このため、内地との連絡港として基隆が整備されると貨物や旅客は急速に基隆に集中するようになった。

1927年には淡水郡守山本正一などによる「淡水港施設期成同盟会」が淡水港振興戦略に関する計画書を発表し、淡水港の修復を訴えた。
計画のなかで、築港の実現、大陸への短距離航路の開設、淡水線鉄道の延長と駅の新設、大稲との間の小蒸気船の往復、大小2つの公園設置、登山道の整備、淡水・台北間道路改善、関渡駅の振興などが含まれていた。
一部は実現されたものもあるが、この計画は達成出来なかった。

そして淡水は夕陽の美しい観光の街と変貌してきた。

現在、基隆港は旅客船や連絡船のほか、コンテナ船や、漁船、沿岸警備隊、艦艇まで狭い内港、外港にひしめき合い、コンテナヤードも確保できない状況にある。

そこで再び淡水河口が見直され、対岸の八里に大規模な港湾が建設途上である。

このほど発表された新北市の計画では淡水の対岸八里を含めた長期計画によると河口には、大スパンの斜張橋も建設されることになっており、MRTも路線の延長が計画されている。


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2011年12月12日 11:59に投稿されたエントリーのページです。

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