当時、台湾には海水浴場という概念は無かった。
日本統治の頃 滬尾國語傳習所が出来、後に公学校となるが現地の人にとって体育が教科に入っていたことが理解できなかったと言う。
運動など、学校で教えるのもではなく子供達は自然に経験するのもであるという認識であったらしい。
従って、馬偕博士が毎日浜辺で「海水浴」をしていたと伝えられているが当時は奇異の目で見られていたのであろう。
1923年に淡水街はずれの沙崙に海水浴場が設けられたが、当時の海水浴場は街役場が経営していた。
当時は毎年、6月から9月まで運営されており、この期間 台湾総督府鉄道部は2割引の優待往復切符を売り出し、列車を増発し。駅から海水浴場までバスを運航するなど観光客の便を図っていた。
この海水浴場の経営者に浅野タツが当たっていたが、そのいきさつはよく判らない。
しかし、ゴルフ場と同じく台湾で初めての海水浴場については、LCさんのようによく憶えているという人もいる。
公学校でもよく海水浴に行っていた様である。
片倉佳史氏はその著書「台湾風景印」のなかで『三方が小高い丘に囲まれ、一方が海に面していることから本土の鎌倉に似ていた。そのため淡水鎌倉海水浴場と名付けられた』と紹介している。