基隆と内地を結ぶ連絡船は、1896(明治29)年に大阪商船が命令航路として補助金を受けて、「須磨丸(1563総トン)」ほか2隻で毎月3便で運航を始めた。
日本郵船も翌年、「横濱丸」で月2便のサービスを開始した。
当時は基隆から門司港に寄港し、神戸まで運航されていた。
この大阪商船の定期表に描かれているのは「高砂丸」である。
日本郵船は「富士丸」を新造して近海郵船に運航させたが、後に合併している。
「高砂丸」は戦争中、病院船として活躍し、戦後は引き揚げ船としても功績を残している。
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日本郵船も翌年、「横濱丸」で月2便のサービスを開始した。
当時は基隆から門司港に寄港し、神戸まで運航されていた。
この大阪商船の定期表に描かれているのは「高砂丸」である。
日本郵船は「富士丸」を新造して近海郵船に運航させたが、後に合併している。
「高砂丸」は戦争中、病院船として活躍し、戦後は引き揚げ船としても功績を残している。