1940(昭和15)年10月25日の午後4時過ぎ、淡水に大日本航空の川西4発飛行艇「綾波」(艇体符字:J−BFOZ)が着水した。
この日の午前5時15分に委任統治であった南洋群島のパラオ島(標準時は内地と同じ)を離水して午後4時8分に淡水に着水した。
所要時間は余裕を見て12時間と予測されていたが、10時間53分で到達した。
7時半、朝食の出る頃から天候が悪くなり、低気圧のため風速24メートルの強風を受けて海面すれすれで航行したが2時間ほどで脱出している。
9時5分頃には南洋庁の警戒船「南栄丸」から「機影を南方に認む。御安航を祈る。」と着電あり、返信を返している。
2時半頃、艇上で誰かが「台湾が見える」と喜んだが、またも天候急変し、窓から吹き込む雨で乗務員はびしょ濡れになった。
このため3時半には着けるだろうと予測し無線で連絡していたが、高度100メートルの低空で目的地を探したために着水は4時を過ぎていたという。
花蓮の辺りから海岸沿いに基隆、富貴角と迂回して到達したものであろう。
淡水の郡役所は、紅毛城にほど近く、街路に面して建っていたが、岡野俊郎艇長ら8名の乗組員は短艇で郡役所広場に上陸した。
郡役所広場には天幕が設けられ、日本航空台北支所長の大西氏らに迎えられた。
その後、淡水街主催の祝賀宴のあと、車で台北まで行き、花屋ホテルで宿泊した。
翌26日の正午から台北鉄道ホテルで佐々波逓信部長主催の歓迎祝賀宴に出席し、27日午前6時に横浜への帰途に就いたという。
この飛行は、定期空路啓開のための試験飛行であり、11月22日に横浜を出て、サイパン、パラオを経て淡水に飛来したもので母港横浜に戻るまで、9237キロメートルを飛行時間37時間12分で航行した。
ちなみに同艇は、1939(昭和14)年4月には横浜、サイパン、パラオ4180キロメートルを25時間35分で飛び、1940年10月22日にはパラオからポルトガル領チモール島までの調査飛行も行っている。