様式第12号「在外事実・引揚事実等に関する証明書」なる紙片が2枚ある。
一枚は「証明の対象たる引揚者」が父の名前であり、もう一枚は母のものである。
これによると、母は1923(大正12)年12月7日に渡台し、父は1937(昭和12)年3月27日に渡台したと記されている。
海防艦で基隆を出港した日はいずれも1946(昭和21)年3月21日、鹿児島港に上陸した日は3月23日となっている。
別の小さなメモ用紙には
「1946(昭和21)年3月17日 引揚命令により、台湾総督府に集結
3月19日 基隆港に集結
3月21日 基隆出発
3月23日 鹿児島上陸 」
とあるので信憑性は高い。
しかし、引揚者在外事実調査票と父の字でメモした控えによれば「海防艦34号で鹿児島港に3月25日」に上陸したと書かれたものが残っている。
「在外事実・引揚事実等に関する証明書」の「証明者の申立事項」という欄に小野操さんと思われる記述がある。
『昭和10年3月、結婚のために台湾に渡る(1935(昭和10)年3月10日)下関発「蓬莱丸」。当時、主人小野範男は淡水郡役所に勤務していた。同家とは、主人は個人的に、またスポーツ関係等で親交があった。また夫人の実家とは特に親しかった。渡台し、淡水街に居住を始めて以来、近所にあって親類同様のつきあいをしていた。その後、主人の転勤、疎開と離れたがずっと往来、文通あり。昭和21年4月8日、リバティ船で引揚。』
とあり
『上記の証明事項を証明することの出来ると思われる者』の項には両親が新婚時間借りしていた黒川さんの娘、高橋清子さん名が挙がっている。
2日ほど日程に違いがあるが、当時の状況が察せられる。
3月19日に有蓋貨車で基隆に行き、標掲写真の建屋の影の引き込み線で疲れ果てた引揚者がレールを枕に横になっていたことは憶えている。
貨物上屋で2泊したのであろうがそれは憶えていないが、子供心に仮設便所の下に波が寄せていて不安を感じた。