父はスポーツが大好きであった。
水泳も得意であった。
TVでも、野球、サッカー、柔道/剣道などを好んで見ていた。
当時、中国新聞社福山支社前を出発点に、八丁堀の本社前をゴールとする中国駅伝にはゴールに近い稲荷橋の傍にある同業者の店先に行って見るファンであった。
教師をしていた頃は朝礼台で漕艇体操などの指導をしていたし、学校対抗のスポーツ大会には選手で出ていた。
応召してからも銃剣術(木銃を持ち、剣道の胴や面をつけて戦う格闘技)大会にも選手で出来た話していた。
だから子供心に「父さんはスポーツマンなのだ」と思っており、小学校の運動会で徒競走に勝てないと申し訳ない気がしたものである。
しかし、実は 父は若い頃からあまり健康には恵まれていなかったことを知った。
1932(昭和7)年に徴兵検査を受けたときに心臓弁膜症のために丙種合格となっている。父が20歳で佐賀県東松浦郡横田尋常小学校訓導をしていたときのことである。
1944(昭和19)年6月12日、に32歳で応召し、台南の部隊に入営した。その数ヶ月後(11月)にマラリアに罹病し、腎臓結石を併発して野営病院で入院していた。
マラリアは引き揚げて帰ったあとも何度も発作に襲われて苦しんだらしい。
引き揚げのときは母が熱を出し、荷車を借りて集合していた総督府から貨物列車まで母を載せていったと言う。
引き揚げのときに持ち帰ることを許されたものは、大人も子供も自分で持って移動できるものに限られていたので、当時の苦労が偲ばれる。
引き揚げて来て、住居もなく食糧もない状態で毎日、筋肉労働を続けていた無理がたたり、やっと市営住宅に入居出来た1949(昭和24)年4月に肺結核になった(37歳)。
今でこそ、ストレプトマイシンやパスなど抗生物質で治る病気であるが、このような薬が一般に使われるようになるまで、肺結核は不治の病であった。
その市営住宅の隣には満州から引き揚げて来た若い夫婦が住んでいたが、若い奥さんが小学生から未就学の男女児3人を残して肺結核で亡くなっている。
父は仕事中に自転車に乗っていて路面電車にはねられて鎖骨を折る大怪我をしている。
そんな苦労を重ねながら家族を養い、我々を育ててくれたことに今更ながら感謝している。