淡水会で泊まった部屋は二間続きの和室であった。
そこで交々に往時の話に花が咲いた。
話の中に、台湾航路の客船の話が出た。
当時は民間人の往来は船舶に決まっていた。
航路は神戸から門司に寄港して基隆までである。
大阪商船は総トン数8000トン級の「高千穂丸」、その拡大改良型である「高砂丸」(9300総トン)などが就航しており、日本郵船(近海郵船)は「富士丸」(9100総トン)などを台湾航路に充てていた。
これら3隻は、それまでの中古船と違って三菱長崎で建造した新造船であった。
当時、写真で見るように船腹にかなで大きく船名が書かれていた。