昨日、下松のMさんに電話で今回の淡水会に出席したことを話したところ、淡水空襲のときに、学友の一人が亡くなったと聞いて吃驚した。
淡水駅の近く、施合発の近くで被害に遭ったらしい。
おそらく、1944(昭和19)年10月12日の空襲であろう。
Mさんの話では、名前は覚えていないが、施(日本名:山下)君という一級下の4年生であったという。
LCさんの話では、このとき淡水劇場が臨時の救護所にあてられ、血清の獣医、劉興明医師も検死に参加したと黄国華(1994年2月22日)に載っていたそうだ。
この空襲でライジングサンの石油タンクが炎上し、幼い私達の手を引いて母や祖母は夜道を興化店の方に逃げたことを憶えている。
民間人の、しかも学童までも無差別に殺戮する戦争は許せない。