今回の淡水会で参加者のお話を聞いていた。
大部分の方が1946(昭和21)年に旧総督府に集合し、基隆に列車で移動して引き揚げ船を待たされて引き揚げてきたと言っていた。
しかし、3月に引き揚げた人も含めて、リバティ船で引き揚げたという人が多かった。
基隆を出港して一週間も掛かって大竹に上陸したという人が複数名居た。
一週間も掛かったのは、台湾航路を含む日本近海に多くの機雷が投下されており、ほとんど掃海も済んでいない海面を航行する危険を避けて水深の深い大西洋を迂回したり、大陸沿岸を航行して帰ったのであろう。
リバティ船と言えば、米軍の戦標船ながら航洋貨物船であり、戦時急造の補助艦艇、海防艦よりは数段マシな筈である。
海防艦で引き揚げた人は居ないのかと思っていたら、一人いた。
宮崎県から来たMさんである。
海防艦の船名は憶えておられなかったが、1946年3月という時期も、鹿児島に上陸して当時の天保山小学校に収容されたことからも「海防艦34号」であったことは間違いない。
この船は二泊三日くらいで基隆から鹿児島湾に直航した。
長さ70メートル足らず、基準排水量700トン程度のこの船は引き揚げ業務に従事したあと1947年に、当時のソビエト連邦に引き渡された。