我々が引き揚げたあと、公會堂の建物は空き屋であったらしい。
戦前から淡水駅の外れには水上機の基地があり、気象観測のために測候所があった。
戦後、空軍気象観測隊の隊員とその家族が公會堂の建物に住んでいたという。
その数も2、30人居たらしく、沢山の区画に間仕切りされていた。
そんな造作だから電気の配線もちゃんと決められた基準で施行されていたかどうか疑わしい。
事実、過負荷によるショートが度々起きていたという。
それから間もなく、1949年に淡水公會堂は全焼した。
空軍の気象観測隊は淡水を離れ、しばらく公會堂の焼け跡は放置され、まわりには草が生えていた。
我が家にはモノクロやカラーの公會堂の焼け跡の写真が何枚かある。
現地から送送付されたものも、戦後渡台した人が撮影したものを貰ったものもある。
ボストンの博士も子供の頃遊んだことがあるが、当時は何の建物跡か判らなかったという。