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2011年10月 アーカイブ

2011年10月01日

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新北市淡水区「文化淡水・健康城市」

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このほど淡水からpptファイルが送られてきた。

45ページもある力作である。

「認識淡水」、「英訳名由来」から始まり、将来計画を含む淡水交通網、河岸道路、
新庁舎計画、国民運動センターなどから始まり、木下静涯画伯の旧宅を復元し藝術公園にする計画も載っている。

移設された日本古民家「一滴水記念館」だけでなく旧街長官舎、施氏旧宅や滬尾小學、中野金太郎氏旧宅、などの復元計画も写真や図面で紹介されている。

淡水国際環境芸術祭や農業体験活動など広範な内容は見飽きることがない。

個別事項についてはこのページでも紹介して行こうと思っている。

2011年10月02日

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木下画伯旧居の修復整備

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木下静涯画伯は三角公園を見下ろす高台に住んでいた。

レストランを営業している紅に隣接している。

ここも淡水区が古蹟として整備を進めており、邸宅の前は木下公園となるようである。

そこに登る石段から振り返ると淡水河越しに観音山が見える筈である。

2011年10月03日

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淡江大橋

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淡水の対岸、八里には大規模なコンテナターミナルが建設されていることは、このブログでも何度か触れたが、新北市の計画によれば漁人碼頭から対岸の八里まで淡江大橋が架設されるとういう話である。

昨年この建設が決定され、予定通りに行けば2015年には壮大な斜張橋が開通する。
出来れば関渡大橋以来のことである。

地図で見ると建設途上から活用されているコンテナターミナルには台北港と印字されている。

約一世紀前には淡水港が全台湾の貿易額の6、7割を占めていたと言われているが、その後外航船が大型化したために基隆港が主要港になっていた。

その基隆が手狭になり淡水河口に新たに台北港が建設されることになった。

そればかりではない。
MRTも現在の淡水車站から漁人碼頭を経てさらに山側にも延長される計画がある。

古蹟の整備だけでなく未来へ向かった計画も展開されていることを知って驚いた。

2011年10月04日

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パンフレットを郵送して貰った

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盛岡、仙台で集中講義を終えて台湾に渡ったボストンの博士は淡水区長に会われ、淡水会が開かれることをお話ししたとメールで知らせて貰った。

蔡区長からは淡水会の皆様によろしくと挨拶を託されたとのことである。

その後、台中市の中山医学大学から淡水会の出席者の皆様に届けて欲しいとパンフレットを郵送したと連絡が入った。

間もなく手許に届く、その資料が楽しみである。

写真は中山医学大学の一角である。

2011年10月05日

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淡水会への用意(1)

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今年の淡水会もあと2週間後となった。

出席者の皆さんに現在の淡水などを見て貰おうと思ったが、様子が判らないのでパソコンを持参することを考えている。

昔懐かしい淡水の街並みや、戦後送って貰った写真、それに1年前に行ってきた淡水の様子などを見て貰ってはどうかと思ったものである。

まもなく、ボストンの博士から郵送して貰った淡水のパンフレットも届くと思う。

写真は一年前に訪問した淡水国小である。

2011年10月06日

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淡水今昔

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久しぶりに淡水に帰った人は、街もすっかり変わったという。

戦前から市場のあった老街の辺りは道路も拡幅され、すっかり舗装された。

英国領事館手前の漁港の辺りから公会堂の前に上ってきた坂道は立派なバイパスとして新しい中山路となって公会堂の跡に建った文化センターの裏を貫通し、大きな煉瓦建ての淡水幼稚園の建っていた跡地を通っている。

木造の郵便局は取り壊され、大きなビルが建ち並び、ランドマークであった長老派教会も表通りから目立たなくなった。

しかし、ちょっと路地に入ると70年前そのままに残っているところもある。

淡水鎮は一年前に新北市淡水区になったが、街長旧居や木下画伯の住んでいたところも、中野金太郎氏の邸宅も龍山寺と祖師廟や福佑宮などと清水街にあった施家のあと等、淡水の古蹟整備に熱心な区公所によって修復が行われている。

カリフォルニアに住むLCさんが渡米30年後に帰って、淡水の変貌に驚いたと言っていたが、戦前から残っている小径から当時の建物の復元図を描いて私達を驚かせてくれた。
古蹟を整備・保存することはありがたいことである。

往時の写真を皆で懐かしむことが出来るように整理したいと思っている。

2011年10月07日

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樹齢百年の榕樹

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当時の淡水公学校(男子校)は、1941(昭和16)年4月1日に淡水東国民学校となり、戦後は淡水国民小學となった。

校地を設定したときに校庭に植えられた榕樹(ガジュマル)は昨年訪問したとき、樹齢百年と言われていた。

校舎は建て替わり、校門も移動したが十株以上の榕樹は人間の世の変遷に動じることなく立っている。


2011年10月08日

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淡水国際環境芸術フェスティバル開幕!

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淡水で開催されている国際藝術祭の資料が届いた。

日本と台湾で集中講義を行っていたボストンの博士が、淡水から託されて台中の中山醫學大学から郵送してくれたものである。

淡水で開催されている国際藝術フェスティバルは新設された淡水藝術工坊を中心に、淡水を挙げての国際イベントとして、本日から30日まで開催される。

15日には淡水捷運站広場で開催される開幕式には、イギリス、タイ、アメリカ、スペイン、オランダなどから参加して盛り上がりが期待されている。

ほかにも、特別展示の案内や、油車口の世界和平公園の案内なども送って貰った。

少しずつ報告しようと思う。

2011年10月09日

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和平公園

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昨日、郵送されてきた中に油車口に造られた淡水和平公園の案内も入っていた。

河岸から台湾ゴルフ場に行く道の右側一帯が公園として整備された。

入り口の駐車場の傍に平和を祈願する記念碑が設けられる。

淡水神社の建てられていたあとに建った忠烈祠の参道と並行している、ゴルフ場へ道に沿って木桟が設けられており、淡水河越しに観音山を望む広大な緑地が広がっている。

中央に四阿があり、その奥に日本庭園があり、移築された日本家屋、一滴水記念館がある。

資料の裏面には一滴水記念館の間取りや、移設の経緯が述べられている。

2011年10月10日

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淡水和平公園の歴史的背景に掲載された逸話(1)

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ボストンの博士から標記資料の最新版が送られてきた。

A4版186ページの大作である。

前に見せて貰った版から、中文を英文に翻訳したところもあり、新たに追記された事項もある。

ここでは、1944年10月12に淡水街が米艦載機の襲撃を受けて亡くなった20名の民間人犠牲者のうち、2名についてその概要を紹介する。

淡水中學で、李登輝氏と同級であった周明徳氏の御尊父、周炳銘氏は淡水駅に近い施合発に務めていたが、この空襲で亡くなっている。
気象予報官として新高山測候所に勤務していた明徳氏に、訃報を伝える電報が届いたのは2〜3週間も後のことであったという。

もう一人の犠牲者は呉氏(あだ名を猿鹿仔という)というタクシードライバーであった。駅前にあったそのタクシー会社には、一台のタクシーしかなかった。
彼の未亡人は台湾で初めて運転名許を取得した女性であったという。
彼女は72歳のときにロサンゼルスでPhDと学位を取り、タクシー会社のあったところでホテルビジネスに成功したという。

駅の近くにはライジングサンの石油会社があり、そのタンクが空襲で炎上した。
夜道を逃げながら夜空を焦がす火焔を見た記憶がいまも脳裏に残っている。

2011年10月11日

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淡水和平公園の歴史的背景に掲載された逸話(2:公會堂炎上)

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我々が引き揚げたあと、公會堂の建物は空き屋であったらしい。

戦前から淡水駅の外れには水上機の基地があり、気象観測のために測候所があった。

戦後、空軍気象観測隊の隊員とその家族が公會堂の建物に住んでいたという。

その数も2、30人居たらしく、沢山の区画に間仕切りされていた。

そんな造作だから電気の配線もちゃんと決められた基準で施行されていたかどうか疑わしい。
事実、過負荷によるショートが度々起きていたという。

それから間もなく、1949年に淡水公會堂は全焼した。

空軍の気象観測隊は淡水を離れ、しばらく公會堂の焼け跡は放置され、まわりには草が生えていた。

我が家にはモノクロやカラーの公會堂の焼け跡の写真が何枚かある。

現地から送送付されたものも、戦後渡台した人が撮影したものを貰ったものもある。

ボストンの博士も子供の頃遊んだことがあるが、当時は何の建物跡か判らなかったという。

2011年10月12日

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漁船のマスコット

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今月8日から30日まで淡水で行われる、国際環境芸術祭のマスコット「漁船君」である。

淡水の駅前にも漁船のモニュメントが造られている。

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パンフレットでは、この舳先に目玉を描いた漁船が淡水の街を代表するマスコットのように扱われている。

MRT淡水駅前から紅毛城近くの領事館カフェの辺りまで幾つもの会場が設定されているようであるが、その始点と終点にも「漁船君」マークが描かれている。

2011年10月13日

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淡水国際環境芸術祭特別展示

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台湾から郵送されてきたものに、現在開催中の国際環境芸術祭特別展示の案内も入っていた。

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淡水藝術工坊で、ウィークデイは9時半から17時まで、終末は18時まで開放されており、そのほか終末には街や砲臺公園などの見学会も予定されている模様である。

国際環境芸術祭と銘打っただけの力の入れようが判る。

2011年10月14日

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淡水会で展示出来るように

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今年の淡水会も来週になった。

戦前の淡水の写真や、最近のもの、それに先日、現地から届けられた区政報告のプレゼンテーションファイルなどを展示出来るようにフラッシュメモリにコピーした。

写真などはプリントすることも考えたが、もし希望されるものがあれば後日郵送することにしようと思っている。

念のためにノートパソコンを持って行くつもりである。

2011年10月15日

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家族の一員

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淡水会が3日後に迫ってきた今日、Mさんから携帯に連絡があった。

今回は、一度出席すると連絡したあと不参加を決めたので常連の皆さんから電話があったという。

淡水の龍目井で、Mさんは家族として一緒に住んでいた。

Mさんは母のことを「姉さん」と呼び、父のことを「先生」と呼んでいた。

私は「M姉さん」と呼んでいた。

毎回、参加を楽しみにしていたので残念であろう。

常連の皆さんには私達の参加することを話してくれたそうである。

帰ったら報告に行くつもりである。

2011年10月16日

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久しぶりの淡水会

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私が淡水会に参加したのは1988(昭和63)年に安芸グランドホテルで開催された第22回と、その翌年の1989(平成元)年の福岡で開催された第23回であったから、20年以上前のことになる。
その年の名簿によると会員数は約280名であった。

今回の案内に対し、今回は参加しないが淡水に行くのであれば参加したいという返事もあったという。
日本の新幹線が高いこともあって、淡水で開催しても所要時間も交通費もほぼ同レベルであるので近いうちに淡水で行うことが出来ればと思う。

昨年、行ったときも大歓迎してくれた。淡水街長(新北市淡水区長)も歓迎すると言ってくれている。
また淡水では古蹟の復旧再開に熱心で、木下静涯画伯故居、中野金太郎氏宅、街長宿舎跡も復旧されている。
油車口の淡水和平公園にも行ってみたいものである。

2011年10月17日

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明日は淡水会

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明日、今年度の淡水会が開催される。

淡水で、開催中の国際環境芸術祭の資料も出席者にお届けしようと用意した。

新幹線で名古屋に降りるのも久しぶりである。

いまから楽しみにしている。


2011年10月19日

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平成23年度淡水会

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10月18日は平成23年度の淡水会であった。

18日に三重県湯の山温泉「グリーンホテル」の大宴会場「うぐいすの間」で懇親会が行われた。

久しぶりに参加した会員や初めて参加した会員からなどの近況報告、乾杯に始まった会は直ぐに賑やかな宴会となり、次々とカラオケが披露され和やかな雰囲気で盛り上がった。
場所を移動して、古い写真や昨年訪台したときの様子などを見て貰い、淡水から届けて貰った国際環境芸術祭や和平公園の資料を紹介することも出来た。

来年の例会は淡水でやろうと言う声も複数出ていた。先のことではあるが大いに希望が持てる。

写真は19日の朝、伊勢神宮に参拝するためバスに乗る前に撮ったものである。

所用のために1日のみで会場をあとにした会員もいたが、19日に関西から駆けつけた人も居た。今夜も賑やかに語り合っていることであろう。

伊勢神宮(内宮)参詣のあとは二見浦にもまわったが、その辺りのことは折に触れて本欄で紹介したいと思う。


2011年10月20日

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海防艦34号で鹿児島に上陸

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今回の淡水会で参加者のお話を聞いていた。

大部分の方が1946(昭和21)年に旧総督府に集合し、基隆に列車で移動して引き揚げ船を待たされて引き揚げてきたと言っていた。

しかし、3月に引き揚げた人も含めて、リバティ船で引き揚げたという人が多かった。
基隆を出港して一週間も掛かって大竹に上陸したという人が複数名居た。

一週間も掛かったのは、台湾航路を含む日本近海に多くの機雷が投下されており、ほとんど掃海も済んでいない海面を航行する危険を避けて水深の深い大西洋を迂回したり、大陸沿岸を航行して帰ったのであろう。

リバティ船と言えば、米軍の戦標船ながら航洋貨物船であり、戦時急造の補助艦艇、海防艦よりは数段マシな筈である。

海防艦で引き揚げた人は居ないのかと思っていたら、一人いた。

宮崎県から来たMさんである。

海防艦の船名は憶えておられなかったが、1946年3月という時期も、鹿児島に上陸して当時の天保山小学校に収容されたことからも「海防艦34号」であったことは間違いない。

この船は二泊三日くらいで基隆から鹿児島湾に直航した。

長さ70メートル足らず、基準排水量700トン程度のこの船は引き揚げ業務に従事したあと1947年に、当時のソビエト連邦に引き渡された。

2011年10月21日

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淡水空襲の犠牲者

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昨日、下松のMさんに電話で今回の淡水会に出席したことを話したところ、淡水空襲のときに、学友の一人が亡くなったと聞いて吃驚した。

淡水駅の近く、施合発の近くで被害に遭ったらしい。
おそらく、1944(昭和19)年10月12日の空襲であろう。

Mさんの話では、名前は覚えていないが、施(日本名:山下)君という一級下の4年生であったという。

LCさんの話では、このとき淡水劇場が臨時の救護所にあてられ、血清の獣医、劉興明医師も検死に参加したと黄国華(1994年2月22日)に載っていたそうだ。

この空襲でライジングサンの石油タンクが炎上し、幼い私達の手を引いて母や祖母は夜道を興化店の方に逃げたことを憶えている。

民間人の、しかも学童までも無差別に殺戮する戦争は許せない。


2011年10月22日

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次回の淡水会を思う

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今回の淡水会に参加出来たことは有難かったし、嬉しかった。

豊福さん、九鬼ツーリストの吉田さん初め、皆さんに大変お世話になったことを感謝申し上げます。

次回は淡水でやろうという声も出ていた。
大いに楽しみにしている。

今年の会合が終わったばかりで来年の話をすると気が早いような気もするが、一概にそうとは言い切れない。

今回の開催案内に、参加/不参加の返信用葉書のコメントが、当日の資料として配られていたが、不参加の人のコメントに
「10月は前々からの予定が多く、変更できず残念ですが欠席致します。」、
「諦めていただけに皆様にお会いできるのを嬉しいと思います。」、
「それなりに元気ですが、選考(先行?)予約のため日程が変えられません。次機会にお願い致します。」などと言う文面もあり、そのほか、同窓会の幹事をやっているが日程が重なったとか、非常勤講師を休講出来ないとか、墓参の日程と時期が重複したというものもあった。

日程的にどうにもならない場合もあるが、もう少し前広に判れば調整できたケースもあるかもしれない(送付案内の日付けは8月26日である)。

それに航空運賃は日程によって驚くほど差が付くし、先行手配しておけばかなり割引になる場合もある。

淡水で会合を行うことになれば区役所(旧、街役場)や国小(旧、公学校)の関係者も招待することにすれば良いと思うし、淡水には最近、大きなホテルも多いし、福格飯店などはマイクロバスで送迎もしてくれる。

予定は出来るだけ早めに設定するのが良いと思う。

それに、淡水で実施する場合、全員が自己紹介出来ない場合も考えられる(今回も久しぶりに参加した人は自己紹介出来たが、常連さんは紹介もないまま懇談会になってしまった)。
そのため、各自大きな名標をつけることは必要であると思う。

現地で行う場合は不可欠な要件であろう。

淡水では古蹟の修復に熱心に取り組んでおり、旧街長旧宅、木下静涯画伯旧宅、中野氏旧宅、警官宿舎なども整備され、一部は公開されている。

淡水も坂が多いので、タクシー会社でマイクロバスを予約しておいておくのも良いかもしれない。

何かお手伝い出来ることがあれば喜んでやらせて貰う所存である。

2011年10月23日

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1991(平成3)の淡水会

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今回淡水会に出席して、以前3〜4度、淡水で集まったことがあると聞いた。

父の書き残しておいてくれた小冊子「茜雲」にそのときのことが述べられているので読み直して見た。

父は1985(昭和60)年に引き揚げて初めて淡水に行った。
当時通っていた書道教室の仲間と故宮博物院に行ったときのことである。

二度と行くつもりはなかったと書いているが、1991(平成3)年に淡水会を淡水で行うことになり、最年長であったので団長さんにされていったそうである。

そのときは淡水に2泊し、台北で2泊したという。

そのときにはこちらから行ったのが25名で、現地の人達が80名くらい集まってくれたという。

もし淡水でやることになれば、蔡区長(鎮長)や淡水国小の林校長に出席して貰い、歓談したいものである。

ボストンUSAの博士も、カリフォルニアのLCさんも、LCさんのインターネット仲間であるHさんも一緒に参加して貰ったらどんなに素晴らしい会になることであろう。

想像するだけでも楽しくなる。

写真は戦後初めて台湾に渡った際に、空港まで迎えてくれた教え子と淡水に帰ったときのものである。


2011年10月24日

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金平糖

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今回の淡水会では、いろいろな物を戴いた。

写真はその一つ、資生堂の金平糖である。

戦前の淡水にも広瀬ノブさんが「資生堂」という店を開いていた。

当時の思い出のコンペイトウは「乾パン」の包みが連想される。

保存・携帯食であった乾パンはハトロン紙で包装されていたが、その中に小さなコンペイトウが幾粒か入っていた。

戦時下でも、さすがに台湾には砂糖はあったと思うが内地や前線では甘い物は貴重品あつかいであったのだろう。
旧陸軍では「乾麺麭」と呼び、縦3センチ余り、横2センチ足らずの小型で、焼孔が2つあった。
海軍の乾パンは縦8センチ、横5.5センチ程度の大きさで、十数個の焼孔があり、10枚程度で一包にしてあった。

海上自衛隊では、旧海軍式の乾パン(カニヤ製)が採用されチューブの水飴とともに配布され、陸上自衛隊と航空自衛隊では旧陸軍式の乾パン(三立製菓)を150グラムに15グラムの金平糖が一食分として同梱されているという。
これも旧陸海軍の伝統なのであろうか?


2011年10月25日

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台湾出身戦没者慰霊祭

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11月23日に靖国神社で、第7回台湾出身戦没者慰霊祭が挙行される。

靖国神社は、1869(明治2)年に建てられた東京招魂社が1879(明治12)年に改称されたもので、ご祭神として祀られている246万余柱のなかに、27864柱の台湾出身者の御霊が祀られている。

2005(平成5)年12月4日に第1回台湾戦没者慰霊祭が行われて、昨年で第6回になった。
その後、この実績と関係先の協賛により永代神楽祭として慰霊顕彰することとなり、毎年、勤労感謝の日(新嘗祭改め)の11月23日に執り行うことになった。
今年は「永代神楽祭」として最初の慰霊祭となり、神楽「みたま慰めの舞」が奉奏される。

2011(平成23)年11月23日(祝)午後4時45分に靖国神社本殿に昇殿参拝の予定である。

参拝(玉串料:1000円)、記念講演(1000円)、懇親会(3000円)の申し込みは、日本李登輝友の会事務局(〒113-0033東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A、TEL:03-3868-2111、FAX:03-3868-2101)まで、メールもしくはFAXにて


2011年10月26日

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台湾航路の貨客船

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淡水会で泊まった部屋は二間続きの和室であった。

そこで交々に往時の話に花が咲いた。

話の中に、台湾航路の客船の話が出た。

当時は民間人の往来は船舶に決まっていた。
航路は神戸から門司に寄港して基隆までである。

大阪商船は総トン数8000トン級の「高千穂丸」、その拡大改良型である「高砂丸」(9300総トン)などが就航しており、日本郵船(近海郵船)は「富士丸」(9100総トン)などを台湾航路に充てていた。

これら3隻は、それまでの中古船と違って三菱長崎で建造した新造船であった。

当時、写真で見るように船腹にかなで大きく船名が書かれていた。


2011年10月27日

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台湾銀行淡水支店長宅跡

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18日の淡水会の居室ではいろいろな話が出た。

Tさんが、河岸沿いの中正路には未だに日本家屋が残っているという話を始めた。

「台湾銀行淡水支店長宅でしょう。」というと「そうそう。」と思い起こしていた。

しかし、「新北市淡水区」の都市計画には、旧街長官舎、木下画伯邸、中野氏旧宅、施氏旧居などは古蹟として整備されている状況が報告されていたが、この支店長宅は入っていなかったような気がする。

戦後、六十数年残っていたものを撤去するのは残念な気もするが、皆残すわけには行かないのだから仕方がないのかもしてない。

2011年10月28日

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ブログ開設から1年

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昨年9月29日に、故郷淡水を訪れて、1ヶ月後の10月28日に、このブログを立ち上げた。
今日は創設1週年記念となる日である。

先週は久しぶりに淡水会にも寄せて貰った。

来年あたり、マキ子さんとボストンの博士と、カリフォルニアのLCさんと、横浜のKGさんに他の仲間を誘って再訪したいものである。

油車口の世界和平公園や、整備されつつある古蹟も訪れてみたい。


2011年10月29日

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NHKのど自慢in台湾

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今日、午後7時30分からNHKで、10月2日に国父記念館で収録された「NHKのど自慢in台湾」が放映された。

応募総数1480組から選ばれただけあって皆上手かった。

25組の出場者の中には日本人も居たが、多くは台湾の人達であった。

それより何より、楽しそうな雰囲気であったことが良い。

書類選考や予選で落ちた人から「私は上手いのになぜ落とした?」という電話もあり、対応が大変であったという。

先住民の子供達の熱演も良かった。

2011年10月30日

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再び二胡について

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8月初めのこの欄で二胡のことを書いた。

数年前、姜暁艶女史の教室に通っており楽器もそこで買ったのであるが、一年半くらい通ったあと行かなくなった。

レッスンが、年に一度の演奏会にむけての練習に終始していたからである。

衣装を揃えてのコンサートも悪くはないが、好きなときに好きな曲を弾けるようになればと思っていた思惑とは違っていた。

その後、ときおり弾くことはあったが段々とケースに収まっている期間が長くなっていた。

ところが先日郵便受けに入っていたローカルペーパーに、近くの音楽教室で二胡のコースが開講されることを知った。

11月10日と12日にそれぞれ2回、無料体験会があるという。

行って見ようと思っている。

2011年10月31日

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残存艦艇の戦後活動と、その帰趨(1:概要)

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ブログ「漁人碼頭的戰爭」のコメント欄に記載があったので、当時の様子を少し記述してみようと思う。

終戦時点のわが艦艇隻数は829隻(魚雷艇294隻を除くと535隻)であった。

内訳は
戦艦:4隻
巡洋艦:11隻
航空母艦:6隻
水上機母艦:1隻
潜水母艦:1隻
敷設艦:3隻
駆逐艦:41隻
潜水艦:59隻
海防艦:100隻
砲艦:14隻
水雷艇:3隻
掃海艇:11隻
駆潜艇:28隻
敷設艇:6隻
哨戒艇:6隻
輸送艦:16隻
特務艦:19隻
敷設特務艇:14隻
駆潜特務艇:146隻
掃海特務艇:21隻
電纜敷設艇:1隻
哨戒特務艇:25隻
魚雷艇(甲):6隻
魚雷艇(乙):200隻
魚雷艇(隼):88隻
である。

このうち1946(昭和21)年4月1日現在、日本近海にあった行動不能等艦船の状況は、戦艦4隻、航空母艦4隻、巡洋艦6隻、敷設艦1隻、駆逐艦11隻、潜水艦19隻、海防艦25隻、輸送艦2隻、掃海艇3隻、駆潜艇9隻、敷設艇2隻、哨戒艇2隻、練習特務艦4隻、測量特務艦1隻、標的特務艦3隻、敷設特務艇3隻、掃海特務艇1隻、駆潜特務艇23隻、哨戒特務艇9隻の132隻であった。

内訳は、戦艦4隻(長門、伊勢、日向、榛名)、航空母艦4隻(天城、龍鳳、隼鷹、海鷹)、巡洋艦6隻(酒匂、利根、大淀、青葉、出雲、磐手)、敷設艦1隻(常磐)、駆逐艦11隻(澤風、春風、潮、初霜、楢、榎、柳、楡、椿、涼月、朝顔)、潜水艦19隻(伊号121、伊号155、伊号363、伊号369、伊号372、伊号503、伊号504、呂号57、呂号58、呂号59、呂号62、呂号63、呂号68、呂号500、波号101、波号102、波号104、波号204、波号209)、海防艦25隻(八丈、笠戸、崎戸、高根、沖縄、久賀、粟国、天草、伊唐、稲木、29号、45号、63号、65号、69号、95号、2号、4号、50号、74号、124号、190号、200号、202号、204号)、輸送艦2隻(21号、153号)、掃海艇3隻(1号、17号、33号)、駆潜艇9隻(14号、15号、19号、20号、42号、44号、48号、51号、52号)、敷設艇2隻(怒和島、新井崎)、哨戒艇2隻(102号、104号)、練習特務艦4隻(浅間、富士、春日、敷島)、測量特務艦1隻(駒橋)、標的特務艦3隻(大浜、矢風、摂津)、敷設特務艇3隻(戸島、葦崎、黒崎)、掃海特務艇1隻(6号)、駆潜特務艇23隻(15号、16号、20号、25号、49号、60号、153号、160号、164号、167号、170号、172号、178号、188号、195号、198号、208号、211号、213号、225号、226号、228号、229号)、哨戒特務艇9隻(25号、26号、31号、37号、90号、122号、163号、179号、191号)である。
それぞれの在泊位置および状態は膨大になるので割愛するが、その一部として呉地区に在泊した大型艦およびその状況は次の通りである。

戦艦「伊勢」:3月19日の空襲で命中弾2(至近弾:不明)、7月24日には命中弾5、至近弾多数、7月28日には命中弾11,至近弾多数で致命傷を受けた。
このため、船体は大破し、艦内は満水で右へ15度傾斜して着底状態で擱坐した。
戦艦「日向」、戦艦「榛名」も同様の状況であった。
空母「龍鳳」:3月19日の空襲で命中弾5を受け、中甲板以上の損傷大であった。
空母「天城」:3月19日、7月24日、7月28日で命中弾4以上を受け、至近弾による外板の多数の破孔から浸水し、横転状態で擱坐していた。
巡洋艦「利根」は上記3回の空襲で命中弾5、至近弾7以上を受け、船体は大破し、満水着底状態であった。
巡洋艦「大淀」は同様に命中弾6以上、多数の至近弾を受け船体大破、横転擱坐した。
巡洋艦「青葉」は7月下旬の2回の空襲で命中弾約5発を受け、船体大破、艦内満水、擱坐、艦尾はほとんど切断状態であった。
巡洋艦「磐手」は老齢艦のため各部に浸水、擱坐。
同「出雲」は7月24日の空襲で致命傷を受け、転覆擱坐した。
標的艦「摂津」は老齢艦のため浸水擱坐していた。

1945(昭和20)年9月5日現在外地に在った艦艇は次の98隻であった。
巡洋艦「妙高」:(シンガポール・中破)
巡洋艦「高雄」:(シンガポール・中破)
水上機母艦「能登呂」:(シンガポール・大破着底)
敷設艦「若鷹」:(スラバヤ・艦首損傷)
駆逐艦「神風」:(シンガポール)
駆逐艦「柿」:(青島)
駆逐艦「栗」:(青島)
駆逐艦「蓮」:(青島)
潜水艦「伊号501」:(シンガポール)
潜水艦「伊号502」:(シンガポール)
潜水艦「伊号505」:(ジャカルタ)
潜水艦「伊号506」:(スラバヤ)
砲艦「安宅」:(上海)
砲艦「鳥羽」:(上海)

これら艦艇の多くは、大陸、半島、南方などからの復員輸送と、我が国海軍最後の任務である引き揚げ輸送に従事した。

これらの艦船は、戦後間もなく米軍が貸与してくれたそれぞれ100隻ずつのリバティ型船とLSTとともに復員/引き揚げ業務にあたったのち、米国、英国、中華民国、ソ連に戦時賠償として引き渡された。

引揚輸送を終わった特別輸送艦と繋留機雷の掃海を終わった鋼製掃海艦の大部分は1946(昭和21)年夏以降、逐次所定の旧軍港内に繋留された。

1947(昭和22)年1月から4月頃にかけて横須賀(長浦港)、佐世保および舞鶴には駆潜艇以下の小艦艇が多数係留された。

これらは、当時特別保管艦と称していたが、それらは特別輸送艦として扱われた(掃海任務を終了した艦艇は掃海艦から特別輸送艦に転籍のうえ特別保管艦となった)。

[横須賀](86隻)
駆逐艦:「花月」、「春月」、「夏月」、「宵月」、「雪風」、「波風」、「汐風」、「初桜」、「響」、「夕風」、「萩」、「蔦」、「柿」、「菫」、「欅」、「桐」、「楠」、「竹」
海防艦:「福江」、「保高」、「生野」、「四阪」、「14号」、「16号」、「34号」、「36号」、「37号」、「71号」、「105号」、「107号」、「神津」、「倉橋」、「屋代」、「48号」、「49号」、「76号」、「77号」
輸送艦:「9号」、「13号」、「16号」、「19号」、「110号」、「147号」
掃海艇:「23号」、「102号」
敷設艇:「神島」、「巨済」、「石崎」
駆潜艇:「47号」、「49号」
掃海特務艇:「11号」、「12号」、「13号」、「14号」、「17号」、「18号」、「21号」、「22号」
駆潜特務艇:「1号」、「4号」、「27号」、「58号」、「68号」、「72号」、「78号」、「88号」、「155号」、「159号」、「161号」、「171号」、「181号」、「183号」、「185号」、「194号」、「196号」、「202号」、「203号」、「212号」、「221号」、「241号」、「公称1182」、「公称1648」
哨戒特務艇:「3号」、「26号」、「31号」、「134号」

[佐世保](86隻)
駆逐艦:「樫」、「雄竹」、「杉」、「楓」、「冬月」
海防艦:「宇久」、「金輪」、「波太」、「対馬」、「択捉」、「三宅」、「羽節」、「伊王」、「隠岐」、「8号」、「27号」、「32号」、「44号」、「52号」、「55号」、「57号」、「58号」、「60号」、「78号」、「79号」、「106号」、「118号」、「126号」、「132号」、「142号」、「150号」、「192号」、「194号」、「196号」、「198号」、「215号」、「221号」、「227号」、「鵜来」、「竹生」、「生名」、「12号」、「22号」、「104号」、「154号」、「217号」
輸送艦:「137号」、「172号」、「174号」
水雷艇:「雉」
敷設艇:「粟島」、「済州」、「加徳」、「黒島」、「鷲崎」
駆潜艇:「9号」、「21号」、「38号」
掃海特務艇:「16号」
駆潜特務艇:「71号」、「80号」、「89号」、「90号」、「93号」、「99号」、「154号」、「158号」、「168号」、「169号」、「173号」、「231号」、「234号」、「247号」、「249号」、「250号」
補給船等:「若鷹」、「光済」、「白崎」、「早崎」、「荒崎」
陸軍SB艇:「109号」、「114号」
陸軍ES艇:「7号」、「12号」、「18号」、「19号」

[舞鶴](60隻)
駆逐艦:「初梅」、「樺」、「榧」、「槇」、「椎」
海防艦:「奄美」、「占守」、「67号」、「81号」、「85号」、「87号」、「158号」、「160号」、「205号」、「207号」、「新南」、「26号」、「40号」、「102号」、「156号」
掃海艇:「21号」
敷設艇:「黒神」、「片島」
掃海特務艇:「19号」、「20号」
駆潜特務艇:「57号」、「79号」、「86号」、「157号」、「162号」、「164号」、「166号」、「175号」、「179号」、「184号」、「186号」、「187号」、「198号」、「214号」、「215号」、「217号」、「219号」、「222号」、「227号」、「232号」、「236号」、「239号」、「245号」、「246号」
哨戒特務艇:「84号」、「135号」、「136号」、「138号」、「139号」、「152号」、「153号」、「154号」、「175号」、「179号」、「191号」

特別保管船92隻を、次の4組に分けて抽選の上、米、英、華、ソ4ヵ国に引き渡された。
第1回(8隻あて、4組)
1組:「萩」、「竹」、「夕風」、「波太」、「福江」、「海8」、「海32」、「55」。
2組:「初梅」、「楓」、「雪風」、「四阪」、「海14」、「海67」、「海194」、「海215」。
3組:「椎」、「榧」、「響」、「占守」、「海34」、「海105」、「海196」、「海227」。
4組:「柿」、「雄竹」、「宇久」、「海44」、「海106」、「海150」、「海192」、「海207」。
第2回(8隻あて、4組)
1組:「菫」、「楠」、「槇」、「金輪」、「海16」、「海27」、「海60」、「海126」。
2組:「樺」、「樫」、「保高」、「択捉」、「海36」、「海58」、「海87」、「海158」。
3組:「初桜」、「桐」、「生野」、「海52」、「海78」、「海79」、「海142」、「海221」。
4組:「杉」、「蔦」、「樺」、「対馬」、「海85」、「海118」、「海198」、「海205」。
第3組(7隻あて、4組)
1組:「花月」、「羽節」、「海12」、「海22」、「海26」、「海37」、「海49」。
2組:「春月」、「神津」、「海48」、「海71」、「海76」、「海77」、「海102」。
3組:「宵月」、「屋代」、「隠岐」、「海40」、「海81」、「海104」、「海107」。
4組:「夏月」、「奄美」、「倉橋」、「海154」、「海156」、「海160」、「海217」。

予定回航先:米−青島、英−シンガポールまたは香港、華−上海、ソ−未定
ソ連に引き渡された艦艇の引き渡し場所はすべてナホトカであった。

次回以降、小さな海防艦を如何に改造して数百人の便乗者を乗船させたかという区画改造要領や、特別保管船を戦勝4ヵ国に回送した要領や、中華民国に配分された艦艇の中国名(32隻分、2〜3隻不明分あり)などを掲載する予定である。

写真は1947(昭和22)年7月25日に撮影された第二次引渡艦である(於佐世保港。左方:海防艦、右方:駆逐艦)。


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