父は何度も淡水街の地図を描いている。
若い教員であった頃の淡水の街が懐かしかったのであろう。
そのなかで知らなかった地名や事物が描いてあった。
淡水劇場もそのうちの一つである。
私より少し年上のLCさんは、そんなときよく教えてくれる。
引き揚げの時、私は6歳であったので数年の年の差は大きい。
淡水劇場についても6月頃、場所を示す航空地図と、淡水劇場の建設について詳しい資料を送ってくれた。
戦後内装を改造して戯台(台湾式劇場)として使われていたが、1995年に炎上してしまったという。
淡水の街も建設ブームの1937(昭和12)年に最初の劇場が建設された。
賊仔栄貴とあだ名で呼ばれていた洪栄貴と日本人の合同投資で街役場から清水街と新路(現:中山路)のあいだの新街の土地を借りて建設されたもので、歌仔劇、新劇、特技団や無声映画などが上演された。
1944(昭和19)年10月12日、米軍第38航空隊による淡水空襲でライジングサン石油や施合発の製材所で市民20人が犠牲となったが、このとき淡水劇場は臨時の救護所になり血清の獣医、劉興明医師も検視に立ち会ったそうである。
1947年の2・28事件の時は市民が淡水劇場に集まり議論や演説が行われたと言うが夜間は平常のように営業していた。
国府軍が大陸から来て淡水を占領していたときは様子を見ていたが状況が収まると興行を再開した。
戦後にできた淡江劇場や光復劇場などと区別して「旧戯台」と呼ばれていたという。
1995年に淡水劇場の内装が一新されたが、火災が発生して全焼となった。
このため鎮公所は土地貸与契約を取り消し、2005年1月に淡水劇場の焼け跡を片付けると発表したので、古蹟保存団体が鎮長に会見し、暫く取り壊しを見合わせるよう懇願し、大急ぎで古蹟審査が開始された。
しかし鎮長の判断で古蹟としての価値はないとして1月20日に取り壊しが始まった。
1月24日に文化局古蹟審査委員が現場を視察したときには瓦礫の山になっていたという。
LCさんの話では、子供の頃淡水劇場に住んでいたLさんは戦後、土木技師として水力発電所建設現場に務めていたが、米国でLCさんと連絡がとれたときには麻酔医として活躍していたというから驚きである。
そして、東日本大震災の一週間前に青森の個人病院に単身赴任したそうである。
おそらくLCさんがこのブログも紹介して呉れているのではあるまいか?