昨日受信したなかに次のようなメールがあった。
「はじめまして。
(中略)
私の曾祖父は台湾で施合発の役員をしていたそうなのですが、
戦爭とその後の引き揚げでほとんど何も資料も記録も残っておりません。
父も高齢で、段々と更に調べにくくなると心配していた折、
このブログを発見しました。
淡水会という会合や淡水のことをもっとよく知りたいので、
可能であればお会いしたく思います。
(以下略)」
ブログを書いていてこのようなメールを貰うと嬉しい。
私もよく知らなかったので淡水国小創立百週年記念式典で大先輩の一人として表彰されている気象技官であった周明徳氏の私家本から、施合発関連の箇所を引用する。
このとき表彰者の筆頭は台湾の阿片政策功労者の杜聡明博士、第二位は台湾の総統になった李登輝博士、そして第三位が周明徳氏であった。
なお、周明徳氏の御尊父は施合発に勤務し、34歳で高雄支店長に抜擢された秀材であったが、1944(昭和19)年10月12日に米艦載機が淡水を空襲したとき、淡水駅の近くで命を落としている。
また、周氏の従兄違いの許澄松氏は施合発の東勢、高雄両支店長を歴任したという。
(以下、引用)
施合発は台湾一、あるいは日本一の材木商で、1926年に株式組織に改編されたときは資本金60万圓であった。本社は従来通り淡水に置き、三つの出張所(台北、羅東、嘉義)と一つの支店(福州)と一つの姉妹店(基隆。当時の財閥・顔国年氏と共同出資)などがあった。全従業員約290名(船舶部74名を含む、但し約50名の臨時苦力を含まず。1931年現在の資料)、当時としては大世帯の会社であった。1933年に施合発が新興都市の高雄市に進出して支店を新設した。この支店は水運を利用することが出来る高雄川のほとりにあって、本社に次ぐ規模を持ち、従業員90名(約20名の臨時苦力を含まず)の世帯であった。
(引用おわり)
大きな企業で、従業員やその家族を合わせると淡水人口の4分の1になったという記述をどこかで見たような気がする。
今月28日には久しぶりのクラス会で舞子ビラに泊まることになっており、翌日そこのロビーで対面することになった。
来月開催される淡水会の開催通知も先方にお届けするよう幹事役の旅行業者に依頼した。
「淡水会」は任意団体である。
高齢になって総会や懇親会に出られなくなったからと退会した人もいる。
もっともっと会員が増えて、2〜3年に一度は淡水に集まって交歓するようになることが夢である。
市内にいる淡水出身者に機会があれば声を掛けてみようと思う。