淡水の街も道が狭かった。
いまは老街の市場のなかにプロパンボンベを3〜4台載せたバイクが走るが、当時は歩行者のみで自転車など持ち込んだら大変なことになったであろう。
自動車は乗合自動車(バス)くらいで、そのバス道路から先は歩くしかなかった。
河岸に出来た集落で道は細く、上り下りがあった。
しかも駅は町外れにあり、家並みは油車口の近くまで続いていた。
それで駅前や、龍目井の小公園には客待ちの人力車が居た。
大きな双車輪と車体の間には大きな重ねバネがあり、道路が多少デコボコしていてもその大きな緩いバネで衝撃を吸収するので街の乗り物としてちょうど良かった。
資料を見ると鉄道網が敷設される前はレールの上の台車を人が押す、いわゆる台車軌道が多かったようであるが、私はそれを覚えていない。