台湾航路の客船は当初、殆ど大阪商船の独占状態であった。
日本郵船は太平洋航路やインド洋を通る欧州航路の船隊整備に力を入れ、大阪商船は大陸や半島との航路と棲み分けていたのである。
日の丸商船隊の船腹は大戦の始まる前には英米に次いで第三位であった。
大阪商船も南米航路向けに「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」を建造するなど遠距離航路にも進出していた。
日本郵船は近距離航路を近海郵船に運航させていたが、白地に赤の二引きのファンネルマークは同じであった。
神戸を出て、門司港に寄港して基隆に航く台湾航路には大阪商船が1937(昭和12)年の春、「高砂丸」(9315総トン)を新造したが、ほぼ同時期に近海郵船が「富士丸」(9138総トン)を建造し、これに対抗した。
「高砂丸」は2本煙突、「富士丸」は1本煙突であったが乗客定員はほぼ同程度であった(「高砂丸」:一等45名、二等156名、三等700名、「富士丸」:一等31名、二等132名、三等669名)。