引き揚げて帰ったあと、1947年に焦土の広島にたどり着いたが、市営住宅に入居出来たのは1949年のことであった。
小学校の4年生の年度末に幟町小学校に転校した。
その後、私立の中高一貫校に入学し、H大学の船舶工学科に入学した。
入学した約30名の新入生のうち、船が好きで造船を志していたのは自分のほかに1人しか居なかったことにちょっと驚いたものである。
それがH君であった。
出席番号が並んでいるため、体育実技でも物理・科学の実験でも彼とペアになった。
一緒に土方のアルバイトもしたし、期末試験のときは徹夜で一夜漬けもやった。
就職してからも出張すると彼を訪ね、彼も来てくれた。
9月のクラス会には久しぶりに逢えるかと期待したが体調を損ねて欠席と聞いて残念であった。
昨日、その彼が亡くなったとメールを受信したときは吃驚した。
日に焼けた人なつっこい笑顔を思い出している。