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八里に住んでいた人からのコメント

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八里で生まれた人からコメントを貰った。

戦前の八里は当時の淡水よりずっと辺地で、関渡大橋も架かっておらず渡し船でわたるしかなかったので、台北からバスで廬州を通って行くほかはなかったらしい。

対岸の淡水から見える標高612メートルの観音山の麓の郷であった。

1900年前後には全台湾の貿易額の6、7割を占めていた淡水港は川口のため浅く、外航船の大型化に対応するために基隆港が整備されると港湾としての役割を終えてしまった。

その基隆港は客船埠頭、貨物埠頭、コンテナヤード、それに軍港としての機能も持っているものの戦後は取扱量の増大に対応しきれず満杯状態である。

そのため淡水の対岸の八里が大規模コンテナヤードとして整備されてきた。
淡水からはコンテナクレーンがはっきり見える。

淡水と八里は交通の便も良くなった。
車輌なら関渡大橋で渡れるし、漁人碼頭に架橋する計画もある。
頻繁に渡し船も往復している。

今日、コメントを貰った人は八里を故郷と思っている人を知らないという。

今度の淡水会で、知っている人はいないか聞いてみようと思う。


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2011年08月01日 16:50に投稿されたエントリーのページです。

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