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台湾航路の客船

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台湾航路の客船の多くは神戸から門司に寄港して基隆に来ていた。

当初、大阪商船が配船していたが、後には日本郵船(近海郵船)と競合状態であった。

基隆で折り返す船が多かったが、基隆から高雄まで脚を伸ばす船もあった。

比較的小型の船は琉球(沖縄諸島)にも寄港していた。

船名には「さくら丸(3205総トン、帝国海事協会)」や、「吉野丸(8998総トン、近海郵船)」などもあったが次のように大阪商船の客船の多くに台湾の地名が採用されていた。
「安平丸(1698総トン)」、「基隆丸(1673総トン)」、「淡水丸(1674総トン)」、「臺北丸(3300総トン)」、「臺中丸(3213総トン)」、「臺南丸(3176総トン)」、「臺北丸(2794総トン)」、「臺東丸(1944総トン)」、「桃園丸(3460総トン)」、「蓬莱丸(9192総トン)」、「高雄丸(4282総トン)」、「恒春丸(4271総トン)」、「高砂丸(9315総トン)」

三等客室は雑魚寝であったが、ボーイにチップを渡しておくと毛布を持ってきて寝るところを作ってくれたり、茶菓のサービスがあったようだ。

母は臺北一高女から、卒業年次だけ徳山高女に転校したのでそのときに祖母がそうさせたのであろう。

父も船旅と言えばそんな状況と考えていたようだ。

ずっと後になって短期のクルーズに誘ったがどうしても乗ると言わなかった。
何時だったか、九州に里帰りするときに徳山から別府までカーフェリーに乗ったが、個室寝台はそのときが初めてだったらしい。
船のなかにテーブル・ソファー付の個室があり、部屋を出れば売店も自販機もレストランもあるし、展望デッキで内海を眺めるのも心地良さそうにしていた。

見出しの「高砂丸」は大戦中は病院船として戦後は引き揚げ船として活躍した。
1956年に売却されスクラップされた。


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2011年07月24日 14:05に投稿されたエントリーのページです。

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