淡水には1914年に設立されたキリスト教長老派の淡水中學があった。
隣接する淡水女学校とともに賛美歌を歌いバイブルを読み、アーメンを唱えるミッションスクールであった。
1935(昭和10)年3月に淡水中學が台湾神社を遙拝しないことが問題とされ、淡水中學撲滅期成同盟会が発足し、内地人教師が辞表を提出し退職する事態に至った。
台湾の皇民化運動の一環であろうが、台湾総督府が認可した学校であれば条例で廃校にすることが出来なかったのであろう。
結局、台北州庁に「維持財団」が淡中・淡女を接収することになった。
1937(昭和12)年に新入生が入学したが、当時の淡水中學卒では高等学校の受験資格がなかったのである。
その後総督府の認可を得て、台湾で初めての私立淡水中学校となった(淡水中學→淡水中學校)。
この淡水中学校を育て、中学生を指導したのが有坂一世氏である。
一世は秋田中学から仙台高等学校に入った。しかし、学歴は不要という父親の方針から、小学校の代用教員をやっていたが、青山学院に特待制度のあることを知り、横浜の海運会社社長宅で書生をやり、海運会社に入社した。
しかし、秋田中学の恩師から是非と頼まれて3年の期限で樺太の中学教員となった。それから樺太、酒田、糸魚川中学と転々とする間に夫人も両親も失い、条件の良い台南にわたり、台南一中に赴任して、台南州知事子息の英語課外指導などをしていたという。
いま思うと無理があるが台南第一中学に3月、淡水中学に3月の輪番勤務を強いられ、結局台南第一中学を辞めた。
生徒の大多数が台湾人である私立淡水中学校長に赴任した有坂一世氏は名門中の名門であった台北第一中学校から次男を認可以前に淡中に転校させ、台北市の建成小学校を卒業した3男も淡水小学校に通っていた4男も淡中に入学させた。
1940年に卒業した第一期生は人数も少なく、ミッションスクール時代は総督府に認可もされていなかったので高校に進学したものはいなかった。
しかし、その年の3月上旬に淡中の4年生で台北高校を受験した李登輝氏が合格したのである。
有坂校長は併設されていた淡女の校長も兼務していた。
いま名門の名をほしいままにしている伝統校、淡江中學は淡水中学校・淡水女学校の後身である。