淡水線が敷設されたとき、駅は町外れに設けられた。
そしてその近くに植松材木店の淡水製材所があったが、施坤山に譲渡された。
施氏は淡水と三芝の間を流れる大屯渓の大屯村の出身で、1899年に21歳で淡水支庁の頃巡査補として奉職した。
しかし、彼には商才があり、1905年頃職を辞して小規模の米穀、石炭業を始め1907年には個人経営の屋号を施合發とした。
1914年には日本石油などの代理店にもなっていたが、その頃植松から譲渡された製材所を活かして台湾一の材木業社となった。
淡水河は堆積が進み、外航船の接岸が難しくなり斜陽の港となりつつあった。
その安い土地を製材工場と材木置き場とし、自社の木材専用船「大観丸」(2000トン級)やジャンクを所有し、淡水駅から鉄道の引き込み線を敷き、非常に安いコストで経営を拡張させていった。
台湾各地や内地から自社船に満載してきた木材を沖で卸して筏に組み、木材船の喫水を浅くして専用桟橋に横付けしていた。
現在のMRT淡水駅近くの河岸公園の辺りに施合發の専用埠頭が3つもあったという。
自社船のほか3000屯級の「杭州丸」なども用船していたようである。
淡水では昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)の記念行事として寄付金27800圓を募って淡水街公会堂を建てたが(同年8月16日竣工)、この寄付金のうち20000圓は施氏の個人に拠るものであったという。
挿絵は「大観丸」である。
コメント (1)
初めて投稿します。知人より、「淡水」のブログがあることを紹介され、貴重な情報としてすぐさま投稿することにしました。
小生は、79歳で植松材木店を経営していた材木商の孫に当たります。
施合発とか老義発とかの材木店があり、施合発は淡水の駅前(裏)にあったことを記憶しております。祖父が1939(昭和14)年夏に、海水浴場付近に別荘を建築してくれまして、それから毎年夏休み中は滞在し、泳ぎ、勉強し、遊びに夏休み中楽しく過ごしたことを懐かしく思い出します。この別荘に夏休みに遊びに行きましたのは、昭和17(1942)年ごろが最後でしょうか。この別荘は、海軍の施設にするということで、解体し草山に移転したと聞きました。
淡水工場を施坤山氏に譲渡したのは初耳ですが、福州杉を輸入するため、淡水に工場があったという話は記憶しております。施合発との競争に負けたのかもしれません。祖父自ら福州にも出かけ、福州にも出張所がありました。福州杉の取引は決済が銀相場の変動が激しくむつかしかったようです。台湾の営林所との取引、台湾拓殖KKとの取引に重点を移しました。戦争中は竹東の製材工場が海軍施設部の指定工場になり、若き日の中曽根康弘中尉が頻繁に来店されていたようです。
最近、施合発高雄支店長を父上がされていたという方(周明徳氏)と連絡がつきましたが、「台湾山林会報」に掲載されていた広告には、高雄支店名はありませんでした。この「会報(創刊号)」以後に設置されたのかも知れません。周明徳氏が施合発の事務所前で写したという写真には、植松材木店の法被を着た植松材木店の職員が写っていて懐かしく思いました。
小生は目下、昭和初期に倒産した「鈴木商店」につき、『榕樹文化』という季刊雑誌に歴史読み物程度の原稿を投稿しております。そもそもの始まりは、退職後、祖父の伝記を書こうと思い立ち日本統治期の台湾史をも研究することになりました。「祖父の伝記」の完成が小生の使命です。長くなりました。本日はこれにて。
投稿者: 平川 恵吉 | 2012年05月13日 07:53
日時: 2012年05月13日 07:53