富貴角燈塔
蓬莱の北の果てなる富貴角 訪いし往時の懐かしきかな(詠み人知らず)
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三芝国小の百年誌の巻末には、1911年創設以来の教職員名が赴任/離任年月日とともに掲載されている。
その総数は355ページから374ページまで20ページにわたって606名に及ぶ。
戦後の一時期については一部、赴任・離任の年月日の欠けているものもあるがとても貴重な資料である。
創立百年を記念して設けられた同校の文物館には原簿も収められていた。
同表には、1934年から1945年11月末まで務めた松田常已先生の後任として淡水国小の校長になった洪炳南氏も若いときに当時の小基隆公学校に勤務していたことも記されている。
これも三芝国小の文物館に収納されていたファイルである。
民国34年といえば西暦1945年にあたる。
日本統治から中華民国に移管するにあたってまとめられた職員名簿である。
それから65年間も保存されていたから、創設百週年を記念して設けられた文物館で閲覧することができた。
淡水の街の、龍目井、烽火街、砲台埔など私達が住んでいた頃の古い地名はなくなって、中山路とか中正路に改められてしまったのかと思っていた。
2009年に当時の淡水鎮の発行した観光地図に、淡江中學や紅毛城のあたりに砲臺埔という地名が載っていて何となく嬉しくなった。
淡江大學には海事博物館があり、コロンブスが新大陸発見時に座乗したサンタマリア号や、スペインの無敵艦隊などの模型や航海計器が展示されているという。
父が戦後初めて淡水に帰ったとき、記念に貰った絵葉書にも淡江大學の写真があった。
一度、見学したいものである。
新北市淡水区には、縣立(市立?)国小が14校ある。
淡水国小のほか、文化、鄧公、新興、竹囲、天生、水源、興仁、屯山、坪頂、忠山、中泰、育英の各小学である。
しかも、ほとんどの小学は学童定員が多い。
多いところでは1学年に10組以上ある。
従って後者は4階建て、5階建てとなる。
学校名も竹囲、水源、屯山など地名に由来したものもあるし、そうでないものもある。
ただ、淡水第一国小のようないわゆるナンバー・スクールというのはなさそうである。
私立国小というのはないのだろうか?
淡水古跡博物館の発行した資料に「馬偕の道から見る淡水の史跡探訪」がある。
6穴リフィル版に折り込める一葉である。
その中に清末期淡水関税務司令邸という項目がある。
1858年に締結された天津条約で台湾開港が指定されていたが、この批准をめぐって再び戦端が開かれ、その結果1860年の北京条約で淡水の開港が決定されたと記載されている。
別の資料によれば、1895年から1905年までは台湾全島の6割を越す主要貿易港であった。1895年の比率で言えば、淡水に継ぐのは安平(20%)、高雄(4%)、基隆(1%)と独占状態であった。
まだ淡水河の堆積がすすんでいなかったせいもあるが、当時の外航船はせいぜい2千トン級であったので台北に近い淡水は代表港となっていた。
当時、ジャンクは淡水河を遡り、(萬華)や大稲などに行き、いま台北の町中に貿易商の蔵屋敷が並んでいた。
その後、外航船が大型化し、河底の堆積もすすんで満載状態では入港できなくなり、沖止まりしてに荷を下ろし、喫水を浅くして接岸するようになり、日本郵船や大阪商船の定期航路も廃止になった。
一方、日本との交易量が増えるため、基隆港が大規模港湾として開発され、1930年以降は北の基隆と南の高雄の寡占状態になったのである。
台湾の代表港であった淡水の税関も基隆に移され、淡水は支署となった。
その後、建物も公務員の宿舎に利用されたりしていたがお化け屋敷の様になって朽ちてしまった。
いま残っている建物も廃棄が決まったが、地元の有志らの運動によって保存が決まり、現在第三級古蹟に指定されている。
大きな榕樹の陰の小さな店の間に細い道がある。
淡水文化国小前から図書館の併設されている淡水文化センターへ、中山路を跨ぐ陸橋に通じる小道である。
いま文化国小のある辺りに、淡水女子公学校があった。
そして、この小道を降りて行くと街長の官舎があり、その先に公会堂があった。
淡水老街のバイパスとして中山路が出来たのでそのあたりはすっかり様子が変わったが、この小道や、そのさきの公会堂の焼け落ちたあとに建てられた図書館からマッカイ博士の旧居に行く細く曲がった坂道は昔のままである。
三芝から淡水に戻って烽火街に住んでいた。
龍目井より油車口よりで、砲臺埔から下ってきた辺りである。
英国領事館が近かった。
いまは紅毛城と一緒に観光スポットになっていて英国領事館とはあまり言わないようである。
「昔、イギリスの領事館になっていた」という感覚であろうか?
正面の門も砦に登る坂道もきれいに剪定されている。
しかし、当時はもっと鬱蒼とした感じであった。
これほど明るいと少しイメージが違う気がする。
ここは煉瓦建ての領事館から生け垣沿いに降りてくる坂道であるが木陰でひんやりしか感じを覚えている。
足元には日本のものよりずっと大きなスイバが沢山咲いていた。
淡水は河に面した坂の街である。
以前からあった集落は龍目井、烽火街、それに山手の砲臺埔あたりで、淡水線の駅は始点の台北寄りで竹圍の集落に近く、町外れであった。
駅が出来ると、そのから龍目井までの間に公設市場などが出来、新店と呼ばれる一角となった。
そのあたりに少し平地がある程度で紅楼も高台、紅毛城も高台に築かれた。
公会堂も、街長官舎も高台で道はみな狭い坂道であった。
戦後、老街のバイパスとして中山路が整備され、街の様子が一変したが、部分的には昔の道が残っている。
上の写真は淡水小学校、淡水女子公学校から街長官舎の横を通って公会堂に降りる坂道であった。
中山路が街長官舎と公会堂の間に設けられたため、その小道は遮られ、陸橋で中山路を越すことになった。
この写真は旧街長官舎を下から見上げたものである。
緩やかであった坂は削られて崖になった。
いまはもう少し整備されているのではあるまいか?
油車口の滬尾砲臺の脇に、博物館を案内する学芸員の事務所がある。
淡水忠烈祠と滬尾砲臺の間の静かな木立の中である。
ゴルフ場横の滬尾砲臺へ行く観光バスの停留所のすぐ傍である。
しかし、表からは公衆トイレが見えるだけで観光案内所としての表立った表示はない。
入ってみると滬尾砲臺の学芸員の事務室で、博物館の資料やポスターがある。
2009年3月に砲臺を見学したときに説明してくれた学芸員の人がここに我々を案内しいろいろ調べてくれた。
その後、このすぐ傍に日本の古民家が移築され、和平公園も着々と整備されているらしい。
戦前の淡水線には木材業社、施合発の引き込み線があった。
そこから竹圍寄りに、マングローブに接してやや河に張り出した地形となっていた。
そこは鼻頭村と呼ばれ、黄東茂氏の豪邸があった。
岡の上にあった華麗な邸宅は、中世紀風の2階建て洋館で、テニスコート、プール、自家用車などカリフォルニアにあったアメリカの新聞王ハーストの邸宅「ザナドゥ」の淡水版を思わせるもののようであったらしい。
しかし、日本統治時代に黄氏の邸宅は移転させられ、その跡地に測候所や水上機の基地が設けられ、鼻頭村はなくなった。
いま、MRT淡水車站の地下に設けられた道路に鼻頭街の名が復活している。
地図で見ると中正東路と學府路の交差点からMRT線の方向に鼻頭街と表記してあり、駅のプラットホームに平行な地下道となっている。
士林会という組織があることを知った。
士林国民小學の元教師らにより1980年から開催されているらしい。
当初、日本人のみの会であったが台湾からも参加するようになり、5年に一度は台湾で開催されているという。
士林というのは台北市北部の士林区で、芝山巌で有名になった台湾の組織的教育発祥の地とも言える街である。
開校百四週年にあたる平成11年の大会は佐賀で開催され70名も集まったそうだ。
いまは二世が中心になって運営されているという。
今年の淡水会には、士林会との交流を提案しようと思っている。
そしてボストンの博士の言うように、淡水会を発展・永続させるために努力しなければいけないと思う。
淡水線が敷設されたとき、駅は町外れに設けられた。
そしてその近くに植松材木店の淡水製材所があったが、施坤山に譲渡された。
施氏は淡水と三芝の間を流れる大屯渓の大屯村の出身で、1899年に21歳で淡水支庁の頃巡査補として奉職した。
しかし、彼には商才があり、1905年頃職を辞して小規模の米穀、石炭業を始め1907年には個人経営の屋号を施合發とした。
1914年には日本石油などの代理店にもなっていたが、その頃植松から譲渡された製材所を活かして台湾一の材木業社となった。
淡水河は堆積が進み、外航船の接岸が難しくなり斜陽の港となりつつあった。
その安い土地を製材工場と材木置き場とし、自社の木材専用船「大観丸」(2000トン級)やジャンクを所有し、淡水駅から鉄道の引き込み線を敷き、非常に安いコストで経営を拡張させていった。
台湾各地や内地から自社船に満載してきた木材を沖で卸して筏に組み、木材船の喫水を浅くして専用桟橋に横付けしていた。
現在のMRT淡水駅近くの河岸公園の辺りに施合發の専用埠頭が3つもあったという。
自社船のほか3000屯級の「杭州丸」なども用船していたようである。
淡水では昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)の記念行事として寄付金27800圓を募って淡水街公会堂を建てたが(同年8月16日竣工)、この寄付金のうち20000圓は施氏の個人に拠るものであったという。
挿絵は「大観丸」である。
淡水で医院を開業していた蔡黄煌医師は晩年写真撮影を趣味として、淡水の千枚田のような農村風景や淡水街のモノクローム写真を残している。
私が2010年に、当時の鎮公所を訪れたときに蔡醫師の写真が数多く掲載された写真集「過鏡千帆看淡水」(淡水藝文中心3週年特展)も貰って帰った。
蔡醫師は終戦直後、陸上交通の途絶した状況でLCさんが花蓮港から淡水に帰るときに施合發の「大観丸」に便乗したが、上陸にあたってアフリカなど外地から帰航したような検疫をしたそうである。
同じく写真撮影を趣味としていたLCさんが蔡醫師の作品を見たのはインターネットを通じてであったという。
蔡醫師は、淡水鎮長から新北市淡水区長となった蔡葉偉氏の御尊父であるが、1994年に医院が火事になったときに亡くなった。
淡水には1914年に設立されたキリスト教長老派の淡水中學があった。
隣接する淡水女学校とともに賛美歌を歌いバイブルを読み、アーメンを唱えるミッションスクールであった。
1935(昭和10)年3月に淡水中學が台湾神社を遙拝しないことが問題とされ、淡水中學撲滅期成同盟会が発足し、内地人教師が辞表を提出し退職する事態に至った。
台湾の皇民化運動の一環であろうが、台湾総督府が認可した学校であれば条例で廃校にすることが出来なかったのであろう。
結局、台北州庁に「維持財団」が淡中・淡女を接収することになった。
1937(昭和12)年に新入生が入学したが、当時の淡水中學卒では高等学校の受験資格がなかったのである。
その後総督府の認可を得て、台湾で初めての私立淡水中学校となった(淡水中學→淡水中學校)。
この淡水中学校を育て、中学生を指導したのが有坂一世氏である。
一世は秋田中学から仙台高等学校に入った。しかし、学歴は不要という父親の方針から、小学校の代用教員をやっていたが、青山学院に特待制度のあることを知り、横浜の海運会社社長宅で書生をやり、海運会社に入社した。
しかし、秋田中学の恩師から是非と頼まれて3年の期限で樺太の中学教員となった。それから樺太、酒田、糸魚川中学と転々とする間に夫人も両親も失い、条件の良い台南にわたり、台南一中に赴任して、台南州知事子息の英語課外指導などをしていたという。
いま思うと無理があるが台南第一中学に3月、淡水中学に3月の輪番勤務を強いられ、結局台南第一中学を辞めた。
生徒の大多数が台湾人である私立淡水中学校長に赴任した有坂一世氏は名門中の名門であった台北第一中学校から次男を認可以前に淡中に転校させ、台北市の建成小学校を卒業した3男も淡水小学校に通っていた4男も淡中に入学させた。
1940年に卒業した第一期生は人数も少なく、ミッションスクール時代は総督府に認可もされていなかったので高校に進学したものはいなかった。
しかし、その年の3月上旬に淡中の4年生で台北高校を受験した李登輝氏が合格したのである。
有坂校長は併設されていた淡女の校長も兼務していた。
いま名門の名をほしいままにしている伝統校、淡江中學は淡水中学校・淡水女学校の後身である。
淡水は河岸や古蹟の観光だけでなく、農場や牧場にも力を入れている。
大根祭りや南瓜のコンテストなどは知られているが、ハイキングや郊外の自転車コースなども盛んに広報している。
大屯山や陽明山など健脚向きのコースもある。
淡水の市街地は淡水河に沿った広くない一帯であるが、その郊外は自然がいっぱいである。
颱風6号が西日本を通過した。
当地では風が強いくらいで殆ど被害らしい被害はなかった。
今朝から風が強かったが、昼になって太陽が照り始めると、とたんに蒸し暑くなった。
よくシェークされたパパイヤミルクが無性に懐かしくなった。
暑さでへばっているときにあれを飲むと元気が戻ってくる。
MRTの紅樹林駅から淡水駅までの間にはマングローブの中に立派な木道が整備されている。
途中から河岸沿いの自転車道と合流するが、距離にして2キロメートル程度で歩くにはちょうど良い距離である。
淡水駅に近づくと、戦前に水上機場として使用されていたところがそのまま残っていたがこの辺りも大規模な再開発工事が行われているようである。
淡水鎮(新北市淡水区)の発行したパンフレットによれば歩数3千余り、この距離を歩いたときの消費カロリーまで載っている。
前にも書いたが、淡水の漁船は船体を鮮やかなブルーで塗り、船首両舷には必ず眼が描かれている。
これは沖に出て潮に流されたりして船位が判らなくなっても、必ず母港に戻って来られるようにと願う信仰によるものらしい。
これを確認しようとウェブを捜したが見つからなかった。
迷信と笑う人も居ようが、私はこの素朴な信仰が台湾の心の優しさであると思っている。
媽祖様など、廟や寺堂に真剣にお参りする人をよく見かける。
淡水にも福佑宮、龍山寺、蘇府王爺廟などがあるが、実は私には廟、堂、院、宮などの違いがよく判らないのである。
日本人も訪れた地で神社や寺院にお参りするが、台湾の人達ほど真剣にお参りするのではなく、訪れたご挨拶のような参拝をする人が多いと思う。
淡水の今日の最高気温は25℃、最低は10℃、11時過ぎの気温は23℃で、湿度は20〜30%程度であるという。
ちなみに当地の最高気温は31℃、最低気温は25℃で、湿度も50〜70%である。
一般に気温は台湾の方が高いが、日本の夏は湿度が高いので肌から汗が噴き出してくる。いつも汗は出ていて、その蒸散作用で体温を調整しているのであるが、湿度の高いところでは蒸散が間に合わず、体温調節機能も発揮できない。
台湾でも南部は温度も湿度も高い熱帯だそうであるが、淡水辺りでは夏でも木陰に入ると涼しい風が吹いているので内地より快適である。
台湾航路の客船の多くは神戸から門司に寄港して基隆に来ていた。
当初、大阪商船が配船していたが、後には日本郵船(近海郵船)と競合状態であった。
基隆で折り返す船が多かったが、基隆から高雄まで脚を伸ばす船もあった。
比較的小型の船は琉球(沖縄諸島)にも寄港していた。
船名には「さくら丸(3205総トン、帝国海事協会)」や、「吉野丸(8998総トン、近海郵船)」などもあったが次のように大阪商船の客船の多くに台湾の地名が採用されていた。
「安平丸(1698総トン)」、「基隆丸(1673総トン)」、「淡水丸(1674総トン)」、「臺北丸(3300総トン)」、「臺中丸(3213総トン)」、「臺南丸(3176総トン)」、「臺北丸(2794総トン)」、「臺東丸(1944総トン)」、「桃園丸(3460総トン)」、「蓬莱丸(9192総トン)」、「高雄丸(4282総トン)」、「恒春丸(4271総トン)」、「高砂丸(9315総トン)」
三等客室は雑魚寝であったが、ボーイにチップを渡しておくと毛布を持ってきて寝るところを作ってくれたり、茶菓のサービスがあったようだ。
母は臺北一高女から、卒業年次だけ徳山高女に転校したのでそのときに祖母がそうさせたのであろう。
父も船旅と言えばそんな状況と考えていたようだ。
ずっと後になって短期のクルーズに誘ったがどうしても乗ると言わなかった。
何時だったか、九州に里帰りするときに徳山から別府までカーフェリーに乗ったが、個室寝台はそのときが初めてだったらしい。
船のなかにテーブル・ソファー付の個室があり、部屋を出れば売店も自販機もレストランもあるし、展望デッキで内海を眺めるのも心地良さそうにしていた。
見出しの「高砂丸」は大戦中は病院船として戦後は引き揚げ船として活躍した。
1956年に売却されスクラップされた。
淡水には古蹟博物館がある。
新北市淡水区の管理運営する博物館であるが、紅毛城・旧英国領事館・滬尾砲臺・小白宮を含む博物館である。
紅毛城と旧英国領事館は同一区画にあるが、小白宮はその近くの砲臺埔にあり、滬尾旧砲臺は油車口と離れているのに合わせて一つの博物館として運営されている。
紅毛城は1628年にスペインによって建設され、その後オランダ、イギリスが補修しながら維持していたが戦後台湾によって管理されている。
小白宮は、清朝時代に天津条約により開港された淡水港の税関業務をイギリスに委ね、その税務官の官邸として1876年に建設されたものである。
このほか幾つか建屋があったが荒廃し解体されている。
滬尾砲臺は清仏戦争(清法戦争)でフランス軍に上陸されたため、ドイツから工兵大尉を招聘して1889年に構築されたものである。
幸いにして実戦に使用されずに現存している。
英国領事館は紅毛城一帯をオランダから引き継いだイギリスが1891年に建設されたもので、大東亜戦争によりイギリス領事は引き揚げたが戦後もイギリス領事館として用いられていた。
私は小白宮を傍から眺めたことはあるが、ここには入ったことがない。
小さなホワイトハウスという名の通り高台に建つ美しい建物である。
このブログを始めて、初対話(?)をした人からメールを貰った。
初対話というのは新造語だけれども、まだ対面したこともないので初対面と書くわけにも行かないからである。
「紺碧の海」のブログにはボストンの博士、カリフォルニアのLCさん、横浜のKGさんからメールを貰って今は大切な友人となっているが、昨年の秋に開設した淡水ブログでは初めてである。
ここではYさんと呼ばせて貰うことにする。
Yさんも上記3人と同じく淡水人である。
いま、日本の大学院に留学して仕事も持っているそうである。
ときどき淡水に帰ることもあるそうなので新しい情報を届けてくれるかもしれない。
今年の淡水会の案内が来たらここで紹介させてもらう所存である。
台湾観光イメージキャラクターに「茶さん」が居る。
茶さんの本名は茶壱福、通称チャーリー(茶阿里)。
1976(民国65)年7月21日に台湾九で生まれた。
実家は茶藝館で、本人は観光局に勤めている。
2002年夏にデビューしたときは独身で、恋人募集中という設定であったが、いつの間にか妻と長男と3人暮らしになっていた。
熱しやすく冷めにくい性格で、モットーは「考える前に注げ」という。
奥さんはママ茶(茉莉花)、1976(民国65)年九生まれの幼なじみ。
茶さんの学生時代に台北で再会し、5年の交際を経て結婚した。
長男はベビー茶(茶若葉)、2002(民国91)年台北生まれ。
おじい茶(茶陳年)、1937(民国26)年高雄生まれ、九で妻と茶藝館を営み、月に2、3度遊びに来るという。
おばあ茶、名前・生年月日など不詳
2002年、2003年、2004年にはCMも放送され、「茶さんのホームページ」も内容、デザインとも秀逸であった。
是非、再登場して欲しいキャラクターである。
すこし前に本欄で淡江大學の淡水海事博物館を紹介したが、その続報である。
本学は1950年に淡江英語専門学校として設立され、1958年に淡江文理学院となり、1980年に大学に昇格し淡江大学となった。
淡江大学では文理学院時代から海事教育に着目し航海学科と舶用機関学科を創設したが、そのとき世界的海運会社である長栄海運(略称:エバーグリーン)から商船学館が寄贈された。
5階建ての商船学館には実験設備、図書、教育用機器も寄贈されている。
しかしながら残念なことに両学科は1986年に閉鎖されてしまった。
そして商船学館は1990年に台湾で初めての海事博物館として発足した。
大学創設者が永年にわたって蒐集した数十隻の船舶模型が展示されていると言うが、それらがすべて同一スケールで作られているからそれだけでも凄い。
2階には鄭成功の軍船からコロンブスの乗船サンタマリア、米戦艦ミズーリ、原子力空母ニミッツ、独戦艦ビスマルク、商船ではクィーン・メリー、ブリタニック、タイタニックなどが展示され、3階は図書室その他、4階には操舵室があり、船舶の運航に不可欠な羅針盤レーダーや航海システムなどの設備もあるという。
地下室には実際に作動させることの出来るディーゼルエンジンも設置されているという。
ちなみに、台湾の高雄港は世界最大のスクラップヤードであったことがあり、かつての名船が曳航され解体されていたため、その装備品を目当てに世界中から業社が参集していたことがあった。
母は詩吟をやっていた。
段位をとって吟詠会から淑葉という雅号を贈られていた。
若い頃、琵琶を習っていたという。
薩摩琵琶、筑前琵琶のほかに近頃では中国の琵琶を吟じている人が居るが当時、母が習っていたのはどの琵琶だか判らない。
琵琶は楽器のみ演奏するのではなく、物語を吟じるのである。
漢詩なら短くて済むが平家物語の壇ノ浦などでは時間ががかる。
祖母が吟詠が好きで幼い母に教えていたのであろう。
私も学生の頃、詩吟を勧められたことがあり、少しは練習した記憶がある。
何時のことであったか、両親と高天原の墓地に先祖の墓参りに行ったとき、お参りが済んで母が墓碑に向かって吟じていたことがある。
昨年、淡水に帰ったときに歓迎の昼食会のあと、SHさんにお願いして「国破れて山河あり」を吟じて貰った。朗々たる吟詠であった。
SHさんは演歌や詩吟を教えていると聞いた。
父は独身の頃、尺八を習っていた。
練習していたのはごく短い間だったと思う。
尺八はリードもなく、穴が5つ開いているだけの単純な構造なので「首振り三年、ころ八年」と言われる程演奏は難しいらしい。
尺八という名は、長さが一尺八寸であるところから来ているという。
最近はプラスチックやガラスで出来ているものもあるという。
淡水公学校の授業
淡水公学校の授業の様子である。
学童が驚くほど真面目に授業を受けている。
黒板の高さや教卓と較べても、特に教壇はなかったようである。
板書も丁寧である。
右端に当日の月日が書いてあり、その左に「郊外の秋」と書いてあるところからして、授業は国語(読み方?)らしい。
黒板の上には時計、その上にあるのは歴史年表であろう。
その右には明治天皇の御製が掲げてある。
左右に世界地図と日本地図が張ってあり、右前に小黒板がある。
学童の机は2人掛けの木机で、全員が背筋を伸ばして机上の教科書を目で追っている。
皆、短く散髪してキチンとシャツを着用している。
夏は暑いので、教室と廊下の間には床上に換気用の小窓が開いていた。
何時だったか、その小窓から教室に入り込み、欠席の学童の席に座っていたことがあるそうである。
今の子供にこんな真面目な授業風景は想像も出来ないであろう。