LCさんが戦前の航空写真と、淡水幼稚園近くの写真二葉を送ってくれた。
航空写真には赤ペンや赤のマーカーで細かく説明用の線が書き込まれ、枠外にはびっしりと説明が加えられている。
煉瓦建ての淡水幼稚園は、現在 新生街と呼ばれる地域にあったようだ。
公会堂の建っていたところは図書館・公民館などの入っている鎮立文化センターになっているが、その辺りから重建街までの一帯が新生街と呼ばれているらしい。
戦前は油車口から来た道が、英国領事館から少し龍目井に寄った漁船の船溜まりのあたりで分岐して緩い坂道となり公会堂の前を巻くように曲がっていた。
淡水街の迂回路としてこの道から清水街の山の手にかけて中山路が整備されたようだ。
そのとき淡水幼稚園や木材を積み上げていた杉塊庭が新しい中山路として利用されてという。
淡水駅の近くには施合発、老義発などがあり、木材業は淡水の主要産業であった。
航空写真の枠外には淡水幼稚園の建物や運動場まで描いた見取り図が添えられていた。
これで公学校から公会堂までの当時の様子をうかがうことが出来る。
太平洋の彼方から当時の事物を教えて貰えることは非常に有り難い。
これもインターネットの大きな恩恵だと感謝している。
電子メールには、幼稚園のまわりの様子とその傍を下る牛車の写真がも添付されていた。淡水河の対岸に観音山を望む、芸術家でなくても写生したくなるような絶好のポイントである。
ちなみにLCさんに教えて貰ったところによると、公学校の東側には公設の食肉解体処理場があったという。
片倉佳史氏の著書「台湾に生きている『日本』」によれば、そこには大きな自然石の畜魂碑が立っており今でも月に二度、関係者により家畜たちの供養祭がとりおこなわれているそうである。